ふぁぼるってもしかして認知がほしいってことなんですか? というお話。

コンスタントに書くと少しずつ閲覧してくれる人が増えますね。
サボるとどんどん見られなくなります。
そんな微々たる数で一喜一憂しているのですが、最近ブログを始めた師匠は、普段は限りなく0なのに、ちょっと書くとすぐ私の三倍くらい閲覧が行くそうです。
格差を感じる夜。

昨日、「濱野智史×東浩紀「アーキテクチャからアイドルへ――platonicsの新しい挑戦」を視聴した記事を書いたのですが、今日になって、あんな話もあった、こんな話もあった、と思いだしております。

その中で、アイドルライブで「レス」をもらうことの重要性を濱野さんが全力で話しておりました。
このレスについて非常に盛り上がっていて、これなしにはアイドルは語れないというお話なのですが、割愛させていただいて、今日お話したいのは、その中で出た「認知」ということについてです。

まず、「レス」ってなんですか? というところからお話しましょうね。
すっごく簡単にお話します。気になったら、調べてみてください。(投げてみる)

簡単に言うと、ステージから自分に向けて、アイドルがサインを送ってくれるというものです。
これはよくある「今絶対に目があった!」という勘違い現象ではなくて。
もっと明確に、間違いなくこちらにメッセージを送ってくれた、もしくは返してくれた、というものです。

昔聞いた話で、モーニング娘。のライブで、前の方の良席の人たちでスケブ(スケッチブック)を持っている人たちがたくさんいたそうです。
何をするのかというと「こっちむいて」とか「ピースして」とか。
今リーダーになった道重さゆみちゃんだったら「うさちゃんピースキボン!」とか。(今もやってるのかなぁうさちゃんピース……)
もちろんアイドル側の裁量ではあるのですが、実際にやってくれたりするのです。
すると、成立。

また、昨日聞いた話では、地下アイドルの現場(ライブなどのことをこういうんですよね)では、ステージ上から指差しでレスをくれるのだそうです。
◯◯さんありがとー! ◯◯さんもありがとー! みたいな感じで。
もしくは、推しの子に対してライブ中に、盛り上がりという形でアピールを送り、それに対してアイドルが反応してくれる。
これで、成立。

ざっくりですが、こういう現象のことを言います。

レスをもらうためには、足繁くライブに通い、アイドルに顔を覚えてもらうという行為が必要になります。
この、アイドルに顔を覚えてもらった状態を「認知」と言うみたいです。

AKB48だったら、劇場で会えていた古参のファンを除き、売れてしまってからは非常に難しい話になります。
会場大きいですし、ライブ中にアピールするなんて至難の技。
でも、握手会があるんですよねーー!
あんな至近距離で会えてかつ接触も出来る。
というわけで、CDを鬼のように買う人が出てくるわけなんですが。

すると、一日のうちに、一人のアイドルに数回握手できたりするのです。
これを繰り返すと……。そりゃ覚えますよね!
そうなると、トップアイドルのAKB48とて、反応が変わってきますよねー。

地下アイドルになると、もう少し簡単みたいです。
まず会場が小さいので、ライブ中に目立つことは十分可能。
そして、ライブ後は「チェキ」があります。
これは、一枚チェキいくら、というサービスで、ビジュアル系の物販などでも行われているものなのですが、今、2000円とかするんですって!
私が知っている時点では500円だったのになぁ……。
ちなみに、2000円は売れてる方の娘達のようなので、ほとんどは500円位でやっているものと思われます。

これも握手会と一緒で、至近距離で写真が取れるわけですし、地下アイドルの場合は、握手会より時間も取れるでしょうから、覚えてもらえる度は上がりますよね。

……と。
こんなふうにして、いかに「認知」され、現場で「レス」をもらうか、というのがファンの方々の主戦場のようです。

はい。ここまでは長くなってしまったのですが前置きです。
最近、コスホリックにいったりと、コスプレイヤーさんに興味津々な私なのですが、そのTwitterを見ていて、すごく疑問な現象があったんですよね。
ふぁぼる、つまりお気に入りのチェックをする行為なのですが。

私の場合、あとで見たいとか、これは後々何度も見返したい、というものをふぁぼります。
どうしてもそういう価値観で見てしまうので、なにげなーーい、なにげなすぎるコスプレイヤーさんたちのツイートにお気に入りが入っているのがよく理解できませんでした。

これくらい可愛くなったら、私のくだらないつぶやきもふぁぼってもらえるのかなぁ……なんてのんきに思っていたんです、昨日まで。

 

でも気づきました!

……これって、もしかして「俺見てるよ!」アピールなんですかね!?

Twitterクライアントと設定にもよるんですが、ふぁぼったことが通知される場合もあり、また自分で誰からふぁぼられているのかを確認することができます。
もしかして、積極的にふぁぼっていくことで「認知」されようとしているんですかね!?

リプ送っちゃえよ、という見方もあると思いますが、基本的に「返せる時に返します」というスタイルだったりするの大抵です。(しないのが基本の子ももちろんいます)
プロのアイドルと違って、日々の生活がある娘達が多いですからね。

でも「認知」状態になるとリプにレスが来るその確率は上がるだろうし、なんだったら仲良くなれちゃったりするかもしれません。

 

……あくまで仮説なんですが……。
こういうのって、あるんでしょうか? ちょっと調査してみたい欲望にかられています!

以上、綾瀬の「ふぁぼりは認知を得るための行動なのでは!?」説でした。
ご清聴ありがとうございました。


「濱野智史×東浩紀「アーキテクチャからアイドルへ――platonicsの新しい挑戦」  を、視聴しました。

秋田の実家で粛々と原稿を書いている綾瀬です、こんばんは。
こっちはすっかり春めいてきました。

今日、ふと見た東浩紀さん@hazumaのツイートが熱くて、ゲンロンカフェ今晩面白そうだなーなんてのんきに思っていたのですが。
「あ、完全中継チャンネルあるじゃん……!」と思い、ついに初挑戦してみました!

→ゲンロン完全中継チャンネル

ちなみにイベントのご紹介はこんな感じ。

芸能事務所platonicsを立ち上げ、今春にも新アイドルグループをデビューさせるべく候補者募集に乗り出した濱野智史。
年間300本のアイドル公演に参戦するなど、アイドルファンとしての顔を表に出して総合プロデューサーの任を務める濱野には、ゼロ年代の重要文献になった『アーキテクチャの生態系』など、情報環境研究者としての側面もある。著書『前田敦子はキリストを超えた』は、アーキテクチャ論を下敷きにしながら、アイドルが社会に果たす役割を考察している点で、濱野のふたつの側面がともに表れた作といえるだろう。「これから必要とされる、真のアイドルの形」を探るplatonicsは、それらふたつを融合させる試みにほかならない。これから生まれようとしているアイドルグループは、まさに濱野の理想を体現した存在になるはずだ。

濱野がplatonicsで実現しようとしていることはなんなのか。そして、アイドルは本当にキリストを超えるのか。濱野と一対一では2011年以来となる対談で、東浩紀が鋭く切り込む!

ゲンロンカフェHP SCHEDULEより~

濱野智史さん@hamano_satoshiは、私が東さん、そしてゲンロンカフェを追いかけ始めてから名前を何度も拝見していたのですが、まだ著作などは読んだことがなくて。
東さんといえば度々取り沙汰される宇野常寛さんと仲の良い方=東さんとは今はあんまり交流のない方? というすごーくあまーい認識しかありませんでした。今日まで。
しかししかし! 非常に面白いしとんがった方で、今後追いかけたい人リストに間違いなく入りました!

濱野さん、最近はアイドルの話しかしないわけですが、ガチガチの情報環境研究者で社会学者的な顔もあり、議論の内容はアイドルであってもうアイドルではない!
回ってアイドルに戻ってくるんですけど。笑
とにかく熱かった! 東さん風に言えば間違いなく神回でした。

濱野さんと東さんの関係も、見ていたらなんだか微笑ましくて、これからまた二人のお仕事とかまた増えたらいいなぁという、ちょー平凡なファン心理も働いたりしました。

対談を申し込んだのはrealsoundのインタビューを読んだのが契機でした。そこでは彼はなかなかラジカルなことを言っている。僕なりに要約すれば「人間がいちばん感動するのは子どもが運動会出てるときですね。アイドルはそれです」と言っている。曲とかダンスとか質は関係ないのだと。

ちなみに、今日ぼくが結論として濱野くんに突きつけるであろうことをネタバレして言うと、それは「要は君の言っている前田敦子はキリストを超えるというのは、だれでも自分の子供のほうがキリストよりも大事ということの言い換えではないのか」という話になるはずです(アブラハムとか除く)。

で、ここに、例の福嶋くんの「日本では神様は育てるものなのだ」論が絡むわけだ。

子育てとか家族とかの問題は本当はすごく哲学的なのに、子育て論を低俗な人生論の一部として、よくてもせいぜい社会学や政策研究の調査対象としてしか捕らえてこなかったところに、近代思想の弱点がある。家族ほど「私とはだれだ?」「愛とはなにか?」の問いを突きつける存在はないんだけどね。

で、ぼくのみるところ、濱野くんのアイドル論は家族と神の関係について扱っているのよ。むろん、いっけんそう見えないし、彼自身もそう考えていないかもしれないけどね・・・

~東浩紀@hazumaより転載~

このあたりの東さんの激アツツイートを見てドキドキしていたのですが、まさにこのような話が展開されていました。
特に、日本では神を育てるものなのだ、からの、「子供もアイドルも神であって、それを育てているのだ。」というあたりは本当にグッと来て。
すごく持論にも繋がりそうなので掘り下げて咀嚼したいなーと思っています。

ちょっとながらで見ていたところもあるので、時間見つけてタイムシフトみたいな。
4時間半くらいあるのでかなり気合が必要なんですが。笑

とりあえず濱野さんの本を買おうと思っています!
とても刺激的な、初完全中継チャンネルでした!


ご無沙汰しておりまする、というお話。

気付いたら最後の記事から一ヶ月近い時間が経過していた……。

ご無沙汰しております、私は、元気です。

ひたすらに気になった本は買っています。積み本が増えていきます。

今日は桜井紫乃さんの「蛇行する月」が会社に届きました。

 

読み終えたのに感想をかけていない本、イベント多数。

一時期気になって仕方がなかったのですが、ここは一旦忘れて……。

なんだったらもう一回読む勢いで書きたいと思います。

 

個人的には引っ越しが迫っていたり、休日はフリーの仕事をしたりで、なんだか嬉しい忙しさに包まれております。

仕事は仕事で、ラストスパート中。

引き止められたりしつつも、笑顔でスルー。

艦これこと、艦隊これくしょんに一喜一憂したりしています。イベント中なので、今はイライラ成分多め。

 

あんまり好きな言葉ではないですが、ちょっと時間がない、ような雰囲気です。

年内は落ち着かないかもしれないけれど、合間を見て、自分のためのアウトプットをしていきたいなと思っています。

 

感想系は結構腰を据えて取り組まないといけないので……。

しばらくは日記に寄せようかなぁ、なんて思いつつ。

書くことリストでも、ここに書いておきましょう。リマインドのために。

 

・東浩紀さんのフクイチ本のイベントへ行った感想。

・家入一真さんの「もっと自由に働きたい」の感想の続き。

・津田大介さんの「メディアの現場」の感想。

・さやわかさんの艦これテーマのトークイベントの感想。

・昔流行った「100人の村」について、フォロワーさんと約束してる記事

・森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」の感想。

・そろそろ艦これについて一度記事にしてみようかな。

 

今は、家入一真さんの「こんな僕でも社長になれた」をKindleでちょろちょろ読んでます。

そんな私です。

というわけで、久々にリンクもない手抜き記事で申し訳ありませんでした。

 

お昼休みも終わり。引き続き会社のお仕事、頑張るのです。


「新文芸坐×アニメスタイル セレクションVol. 48 アニメーション作家・新海誠の軌跡」 に、行ってきました。

一ヶ月前くらいでしょうか。Twitterに流れて来たこのイベントの情報を見て、反射的に予約をしたのは。

私は会社でイラストレーションを作る部署にいるので、新海誠さんの名前はよく聞いていました。

背景がすごい、みたいなざっくりした情報。てっきり背景イラストレーターさんだと思っていた位です。失礼なお話ですが……。

『秒速5センチメートル』自体は知っていました。なにせ山崎まさよしさんの大ファンだったので、「アニメの主題歌になったの?」と当時思ったことを覚えています。

ケーブルテレビの音楽番組か何かで見て、結局映画自体は見ていなかったのですが。

その2つが「新海誠監督」という繋がりを持ったのは最近のお話。

『秒速5センチメートル』の漫画を課題図書として貸してもらったことがきっかけでした。

そして、私の中の新海さんといえば、最近読んだ『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』に、その名前が登場して、大塚英志先生と東浩紀さんが批評していたことです。

そこでは『ほしのこえ』を発表した当時の新海さんの話がなされているのですが、全くほぼ一人でこの作品を作り上げてしまったというエピソードを知り、とても興味が湧いていたのでした。

 

と、私の「新海誠」の事前情報はこれだけでした。

作品は全て初見。オールナイトという過酷な状況ですが、一瞬足りとも気が抜けないなんともスリリングな夜が始まったのです。

正直、うまくまとめられる気がしないのです。

取り留めもない内容になってしまいそうなのですが、どうぞお許し下さい。

例のごとくネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。

 

◆ほしのこえ

『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』で、新海さんがこの『ほしのこえ』をたった一人で作り上げたという話を知り、それは一体どういうものなんだろうか、と思っていました。

時間は25分。少し納得。これが1時間とかだったら、新海誠という人間は一体何者なんだ!という変な先入観が出来てしまっていた気がして、なんだか安心しました。

「携帯の電波が届くところが世界だと思っていた。」

長峰美加子が握る携帯電話は、棒状の懐かしいモデル。

時代を感じつつ、ボタンを両手でプッシュしながら、緑色の画面に一生懸命メールを打っていた頃を思い出しました。

人物の作画には正直「えっ!」と思ったけれど、新海さんが一人で作り上げたということを思い出し納得しつつ、次第に物語の引力で気にならなくなっていました。

寺尾昇と美加子の、日常の何気ないやりとり。

ノスタルジーを逆なでされるような感触、すでにちょっと痛い。

ああ、もうこの頃の感覚ってどんどんすり減ってきてしまってるよなぁ……なんてセンチメンタルになったところで。

宇宙空間にロボット。

 

……えええええええええ!!!!????

 

『秒速5センチメートル』しか事前情報がなかった私は、一瞬置いてけぼりを喰らいましたが、数秒後すぐにリカバリーしました。ただ、斜め上で正直驚きました笑

 

謎の生命体の脅威に対し、国連宇宙軍が対抗するためのロボット「トレーサー」。

そのオペレーターとして選抜された美加子は、宇宙に旅立ちます。

この、女の子が地球規模の危機に、ある日突然立ち向かわなければならない状況になるという設定について『最終兵器彼女』を思い出してしまいました。

あとで調べたら「セカイ系」という言葉において、やはり『ほしのこえ』『最終兵器彼女』は代表例に挙げられているんですね。その話は後に譲ります。

宇宙でもメールは届くらしく、地球にいる昇に、美加子はメールを送り続けます。

ただ、美加子は光年単位でどんどん地球から離れていき、メールが届く間隔はどんどん長くなっていく。

為す術なく待ち続ける昇と、昇との何気ない日々を求め続ける美加子。

新海さんの作品は、「主人公の2人の心の距離と、その近づく・遠ざかる速さをテーマとしたものである」(DVD『秒速5センチメートル』に特典映像として収録されている、新海誠へのインタビュー)らしいのですが、まさに、その距離と時間が、メールというアイテムを使って残酷なまでに離れていくさまを表現しているんだと思います。

 

私は、全作品を通して、もう一つ「孤独」というテーマがある気がしています。

宇宙空間に一人っきりと思えるような状況、大好きな人とは気の遠くなるような距離、そこに身を置きながら、願わくば何事も無く帰れますようにと願う美加子。

彼女は子供で、そして与えられた使命があって、それを放棄して戻ることは叶わない。

ただ、思い出と希望を胸に前に進むしかない。

待ち続ける昇も子供で、見えない大人が決めた不条理にも思える決定を覆す力もなければ、自ら後を追うこともできない。

ただ、間隔が長くなっていくメールを待ち続ける。

 

心だけは繋がっている、そう思いたいけれど、それすらも危うくさせるほどの距離と時間が、そこには広がっている。

次にメールが届くのは8年後、なんて。

そして待ち続ける日々から、前に進むことを選んだ昇の元に届く、8年前のメール。

 

大人になるにつれて、距離と時間に対する向き合い方も、付き合い方も変わってきて、どうにかすれば縮められることもあったり、その方法を行使したりできるようになってくる。

でも、子供の頃って、どうしようもなくそれに対しては力が及ばない。

それは、この後の作品にも、何度も登場する不条理なように思います。

新海さん、なんでそんなにまで、二人を離したがるんですか?

普通にちょっと、辛いです。

 

 

◆雲のむこう、約束の場所

イベントの一番最後に『言の葉の庭』を見るまでは、暫定一位だった『雲の向こう、約束の場所』です。

なんでかって佐渡佐由理ちゃんがめっちゃ可愛いからです!

『ほしのこえ』とのギャップももちろんありますが、佐由理ちゃんの描写がすごくいいです。動きが。

いわゆる平穏できらきらした日常パート部分での彼女の動きに、フェティシズム的なものを感じました。

「女の子のこういう仕草とか動きってかわいいよね」という部分がよく描かれていると思うのです。

と、ヒロインの佐由理ちゃんだけで見る価値があるこの作品ですが、『ほしのこえ』に続きSFです。(私の中では)

戦争を取り扱っている話でもあり、飛行機がビュンビュン飛んでいるところの描写はこれまた凄いです!

この後どんどん新海さんの作品は日常ものになっていきますが、飛行機とかロボットがミサイル飛ばして、背景にでっかい空や宇宙が写り込んでいる……という作品が一番実はやりたかったりするのでは、とつい思ってしまいました。

ただ、夜空と空には、間違いなく何かこだわりのある方なのではないかと思います。

 

「ユニオン」に占領され「蝦夷」と名前を変えた北海道。

南北は分断され、立ち入ることができなくなった土地にそびえる謎の「ユニオンの塔」。

それは天高く宇宙まで伸びているのではないかというほどのもので、日常風景に同化し、あらゆるものの象徴となっていた。

その塔に憧れ、真っ白な飛行機を組み立てる藤沢浩紀と白川拓也。

そして二人の想い人であり、一緒に塔まで飛ぼうと約束をした佐渡佐由理。

 

今回の「距離」は佐由理の「眠り」。

ユニオンの塔は実はとんでもない兵器で、それと対になってしまった佐由理は、3年間眠り続けている。

ここで、「平行世界」というちょっとむずかしい概念が出てくるんですが、それをぶっ飛ばして説明すると、佐由理が目覚めると塔を中心に世界が書き換わってしまう、というのです。

佐由理は「全てが滅びた世界」に一人きりで閉じ込められている。

それが佐由理が見続けている夢であり、その夢こそが、佐由理が目覚めた時に書き換えられる世界の情報=姿である。

と、解釈しました……。汗

 

佐由理は、約束の夏休みの前に睡眠障害を発症し、浩紀達には何も言わず(言えず)突如いなくなります。

浩紀達はその喪失感で目的を失ってしまい、ついに飛行機は完成せず、互いに離れ離れになってしまいます。

没頭できる研究に出会い、ひたすらそれに打ち込む拓也と相反するように、喪失感をむさぼるように生活する浩紀。

まさに新海作品の男主人公の王道を突っ走るわけですが、そんな中でも、佐由理が見続ける「孤独」な夢にほんの少しだけアクセスしていた彼の前に、天啓のように現れる手紙。

佐由理が入院後、ほんの僅かに覚醒していた時期に浩紀達に宛てたものです。

そこから彼は、佐由理の病院に辿り着き(すでに移送後なのですが)そこで、佐由理と「再会」を果たします。

それは、白昼夢とも思える「佐由理の夢に一瞬アクセスする」というものでした。

佐由理が「孤独」に一人きりで耐えていることに気づいた浩紀は、あの「約束」を果たすために、飛行機を飛ばそうとするのです。

 

これも結局、ハッピーエンドじゃないんですよね。

浩紀と佐由理の距離が、最大に近づいたのは、夢のなかで再会した時で。

約束を果たした飛行機の上で、佐由理は目覚め、孤独から開放される代わりに、大切な、大切な想いを「なくして」しまいます。

一瞬だけでもいいから、この想いを伝えさせてくださいと、一生懸命神様に祈るけれど、佐由理は結局、浩紀の名前しか呼べない。

でも。彼女が帰ってきてくれたからそれでいい、と浩紀は言うのです。

再会と喪失の中、三人の繋がりの象徴でもあった白い塔は、爆破され消えていきます。

 

抜けるような青森の空に、いつも細く果てしなく伸びていた白い塔。

その描写は、何度も何度も登場するのですが、一番最後に映る空には、それはなく。

ただどこまでも青い空が広がっているのです。

 

やっぱり「孤独」が出てきます。

今回はより分かりやすく、「一人きりで誰もいない世界に取り残される」佐由理を救う、という構図。

結局、みんな失っていくけれど、でも、私はまだこれはハッピーエンドとして捉えることが出来ました。

痛いけど。

佐由理は、あの真っ赤に染まる放課後の廊下のことも、三人で飛行機を作ったことも、音楽室のバイオリンのことも、全部忘れてしまう。

でも、浩紀は覚えてる。

最後に二人、物理的な距離だけは取り戻すことが出来た。

心が片方なくなってしまっても、もしかしたら、また同じような気持ちを取り戻すことはできるかもしれないから。

ああでも、やっぱり辛いよ。新海さん。

 

 

◆秒速5センチメートル

これは、漫画で事前情報がありましたから、正直あんまり見たくなかった笑

もう、辛いのが目に見えてるんだもん。

『秒速5センチメートル』は女の子ウケしない、という記事を何度か目にしました。

それと同じように、男性目線からも、女と男の違い、的な論争を生んだ作品のように思います。

そして私は、やっぱり遠野貴樹があんまり好きになれませんでした。

男性特有の女々しさと言ってしまえばそれまでな気もするし、過去にとらわれて前に進めない奴、という見方もできるだろうし、一途な想いと喪失感に蹂躙され続けた人、という言い方もできるだろうし。

ただ、なんでしょう。なんかモヤモヤが残る。

「もうちょっと、なんとかならなかったのかな?」です。

でも、今日はちょっと違ったことも考えます。

篠原明里も明里なのかなぁ、なんて。

でも彼女の選択は、やっぱり女だなって思うし、ただ、一度でも会いに行った貴樹に対して、彼女はどうだったんだろう。と。

漫画と小説だけでは、二人の分断された時間の情報がなさすぎて、なんとも言えませんね。

そう、なんだろう。明里という存在が殊の外希薄な気がします。

貴樹が抱く「明里」は色濃く存在し続けるのに対し、実態としての「明里」が、ほとんどない。

小学生と、中学一年の明里だけで。

心に余裕ができたら、小説読んでみようかな。明里サイドの話も読めるみたいだし。

なんだか『冷静と情熱のあいだ』みたいですね。

 

澄田花苗のお話が、一番好きです。

この作品で孤独だったのは、貴樹だったのかなぁ。

最後の最後に、彼は前に進めたんでしょうか。私には、ちょっと分かりません。

キャッチコピーの

どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。」

貴樹の生き方、私は速度を感じませんでした。

 

 

◆星を追う子ども

まさかこの夜4作目にして2時間の大作が来るなんて予期しておらず、精神的ダメージを受けましたが、眠らずにきちんと見れました!

これに関しては……。おおお!?というのが大きすぎて。

明らかにこれまでとは異質な作品です。

新海さん特有の主題は一貫して感じられるのですが、なんというか……ビジュアルが。

ジブリオマージュが……。

「孤独」はやっぱり描かれており、渡瀬明日菜が後半ではっきりと「私寂しかったんだ!」と叫ぶくらいです。

生と死というテーマも掲げられており、少女の成長も描かれており、なんというか作法に則っている感じでした。

これに関してはあえてそうしていったということはあるようです。(Wikipediaより)

アクションも多めで、地下世界を旅するワクワク感は終始感じることができました。

が、なんでしょう……。やっぱり違うものを見た感は大きかったです笑

余談になりますが、「アガルタ」という世界が登場します。

『ほしのこえ』にも惑星として登場するのですが、私にとってアガルタといえば『魍魎戦記MADARA』なんですよね……。

そちらにも胸をはせた作品でした。

 

 

◆だれかのまなざし


たった7分で、傷ついた(笑)心を癒してくれました!

これは視聴可能なので、ぜひご覧ください。30秒付近から見ると良いと思います!

あーちゃん、可愛い。

 

 

◆言の葉の庭

いよいよオーラスです。

最新作『言の葉の庭』です。

一番好きでした。さっき、検索していろんな解釈を見てちょっと興が削がれたところもありましたが、それを差し引いても、やっぱり良かった。

 

雨の日の新宿の庭園。

靴職人を目指すタカオは、雨が好きで、雨の日の1限はきまって授業をサボりデザインを考えていた。

そこである日、昼間からビールを飲んでいる女性、ユキノに出会う。

それから始まる、雨の日の午前だけの逢瀬。

 

ユキノちゃんがかわいい。もうそれだけで私はこの作品好きです!

すみません、仕事柄もありますが、女の子好きすぎるよ私……笑

とはいえ、ユキノは27歳と、新海作品では最年長ヒロイン。そして主人公は15歳の高校生。

今回の距離は、この年齢も一つのアイテムなのかな、と思いました。

 

そして、二人は雨の日にしか逢えない。

今、この携帯端末での交流が当たり前な時代に、流れに逆行するように制限された交流。

そういういえば、新海作品には決まって手紙が登場しますよね。

『秒速5センチメートル』は顕著ですが、『雲の向こう、約束の場所』でもそうでした。

この作品でも、最後には手紙が登場します。

なんでメールじゃないんだろうっていうのはご都合主義でも野暮な話でもなくて、そういう「距離」なんでしょうね。

 

みどころはたくさんありますが、まずはタカオがユキノにお願いして、足の採寸をさせてもらうシーンでしょうか。

降りしきる雨の中、静かに形の良いユキノの足を採寸していくタカオ。

すこしセクシャルで、でもとても美しいシーンです。

ああ、靴作ってあげるのかな、あげちゃうのかな、履いちゃうんでしょ!と否応なく期待が高まります。

 

梅雨のお陰で毎日のように会っていた二人が、梅雨明けのせいでしばらく会えなくなる。

そして夏休み明け、ユキノの正体が判明し、物語が大きく動き出す。

初めて出会った時にユキノが残した万葉集の歌「雷神(なるかみ)の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」 。

晴れた庭園で再会する二人、そしてユキノに返歌を返すタカオ。

「雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」

雷が鳴らなくても 雨が降らなくても君が引き止めてくれたなら 僕はここにいるよ、という意味らしいです。

そして土砂降りの雨。ユキノのマンション。

服を乾かすユキノと夕食を作るタカオ、二人が今が一番幸せだと思う瞬間。

 

そこで、タカオはユキノへの好意を口にします。

ユキノちゃん、赤くなるんだけど……。一歩引いた言葉を紡いでしまう。そして自分は、四国へ帰ると。

生徒にいじめられ、味覚障害になって、学校へいけなくなって、同僚との不倫もあり。

うまく歩けなくなっていた彼女でしたが、タカオのおかげて靴がなくても歩けるようになった、と。

ありがとう、と。

 

でもまぁ、ユキノのために、彼女がもっとうまく歩けるようにと靴を作っていたタカオからすればたまったもんじゃないですよね、こんなこと言われたら。

ユキノとしては、辞めたとはいえ教師という立場上のものはあったんでしょうが、男の子からしたら拒絶でしかなくて、こんないい感じなのにまさかそんなこと言われるなんて!ってなりますよね……。

すぐに着替えて、帰ってしまうタカオ。それを引き止められず、泣き出すユキノ。

ああ、マジかぁ……またこれかぁ……。と、私、激落ち。

なんかこれはいい感じで終わるんじゃないかって、期待してたのに。

しかし。

泣きながらタカオの事を色々と思い出すユキノ。

そして。

……はっと立ち上がって、部屋を飛び出すんです。

 

この瞬間、私テンション急上昇。

やばい、これは、この展開は!頑張れユキノちゃん、走れユキノちゃん!

裸足で部屋から飛び出して走って行くんです、彼女。

(ここで裸足なのは、彼女は靴が必要ないからだと新海さんがオーディオコメンタリーで言ってたという書き込みをみたんですが、ほんとなのかなぁ…。でももう、それならそれでもいい)

途中転んじゃって、でもそれでも頑張って走る。この描写がまたいいんですが。

すると、いるんです、タカオ。

踊り場で、外を眺めながら。でもね。

 

振り向いて、「さっきのは忘れてください」って。

そこから畳み掛けるように、怒りを爆発させる。

でもそれが15歳なりの痛々しい叫びで。彼は、やっぱり裏切られたって思ったのかな。

確かにユキノは大人で、優しくしてたけど付き合う気とか、あるわけないと思うんですよ。

12歳も下で、しかも自分はこれから四国に帰る。いい感じでさよならできると思ってたんじゃないかな。

でもタカオはもうどうしようもなくユキノに惹かれていて、彼女に履いて欲しくて靴を作っていて。

そういうのがもう全部、うわーーって出てくるんです。

ここで私、再び傷つく……。

絶対ハッピーエンドだと思ったのに、まさかここで落とされるとは……。

 

が。

ユキノちゃん、ダイブ。

 

タカオに、思い切り抱きつくんです。

ユキノも、感情が溢れだしてしまったんですよね。立場とか、そういうのもう超えちゃって。

そして辛かった想いを切々と語り、最後に「癒やされていた」と。

 

そう、癒やされていた、と。

そうか……。癒やされていた、なんだ……。

 

いや、もういいとします。これ以上は望まないです。

 

それからユキノは当たり前に四国に帰り、教壇に再び立つのです。

そしてタカオの元には、手紙が届くようになる。

タカオは靴を完成させる。

 

二人共歩く練習をしていたんだと、あの雨の日々を回想し、もっと遠くまで歩けるようになったら、ユキノに会いに行こうと、タカオは思う。

 

教壇のシーンで、ユキノにはタカオの靴を履かせるべきだった!論争や、これはハッピーエンドだ、そうじゃない論争などいろいろ見ましたが。まぁ、どうなんでしょ。

とはいえ、タカオくん15歳だしね。ユキノちゃん27歳ですし。

ここから恋に発展するっていうのもなんだかなぁって気はするんですよね、現実的に。

物語の純度としては、こうすることであの雨の日々が特別なものになる気は、します。

だからこれでよいのだと思いますし、タカオくんがもっと遠くまであるけるようになったら、きっと二人は出会うんだろうし。その時のことはまた、その時のことです。

 

とはいえ、ね。

 

やっぱり、人はハッピーエンドを求めているんだということは、痛いほどに、それは痛いほどに感じました。

勉強に、なりました。

 

 

◆イベントを終えて

さて、昨晩6時間超の時間を、新海作品と過ごした結果、私は今日という一日を、棒に振りました。

綺麗なだけで内容がないとかいう人もいるみたいですが、十分に濃い作品ばかりだと私は思います。

そしてそれをこんなにまとめてみたら、もう頭がぐっちゃぐちゃになり、物語の世界に持って行かれて、結果、呆けるのです。

ふとこれまでの人生を振り返って、劇場で泣かなかったくせに、めそめそ声を出して泣き出したりするのです。

 

どうして、ロボットから始まって、新宿の庭園に行き着いたんだろう。ずっと考えていました。

光年の距離、到着まで8年かかるメールから、雨が降れば会える距離になったのだろうと。

圧倒的無力さを感じざる負えない、徹底した分断。

その中で「想い」と「孤独」だけを純粋に抽出したような初期作品から、「二人」の距離はどんどん近くなっているように思います。

「想い」と「孤独」の隣に日常が寄り添う。そんな作品になってきているのは何でしょう。

リアルの追求? 大衆への迎合? 嗜好の変化? ものづくりのしがらみ?

ものづくりは資本と結びついて規模が大きくなった時に、どう変わっていくのだろう。

たった一人で、一台のPCで『ほしのこえ』を作り上げた新海誠は、今何を思って作品を作っているんだろう。

いいから背景に専念して、他の部分は専門家にやらせれば、という意見を今日何度か目にしました。

消費者というのはわがままで、自分の望む形のそれが生まれることを望みます。

ほしいものをほしいという。

新海誠のつくるビジュアルは好きだけど、お話はどうかな、みたいな人達が今、確かにいるということ。

それに対しての新海さんのスタンスと信念は、どんなものなんでしょう。

 

人にさらされるものづくりの難しさを、考えました。

新海さんは未だ自分の手元に多くを残しながら制作をしている。

批判もあるし、結果描ききれないこともあるのでしょう。

でもそれは、新海さんの戦いなんだと思います。

「新海誠」としてあるための、大切な、たった一人の闘争なのではないかと、思うのです。

それが、新海誠が「孤独」を描く理由だったり、するのではないでしょうか。

なんて、うそぶいてみます。

 

願わくば、どこまでも広がる青空を、飛行機がビュンビュン飛ぶような作品を、また見たいものです。

私が、純度が一番高いと思ったのは『雲のむこう、約束の場所』でした。

 

ここまで読んでくれたあなた、有難うございました。


『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』―東浩紀+大塚英志― を、読みました。

敬愛する大塚先生こと、大塚英志と、個人的に最近注目している東浩紀さんとの対談本。

発行は2008年8月、新しいとはいえませんが、その文脈はけして古くなく、学び取れることは多かったと思います。

とはいえ、この手の本は最近読み始めたということもあるし、私自身の脳みその問題もあるのですが、一瞬で咀嚼し理解できるかというとそうは簡単にいかず……。

電車通勤の間に、ちょこちょこ読んでいたのではまったく頭に入ってこず、まとまった時間を見つけて、今回もう一度頭から読み直しました。

最初の方は、二度目ということもあり、そこそこ理解できたのですが、後半はまたもや頭がおっつかず、正直なところ理解度は6~7割あればいいほうかなぁ……というところです。

お恥ずかしい限りではありますが、これは根気よくもう一度など読む必要があるかな、と思っています。

そんなお粗末な状態ではありますが、貴重な読書体験でした。

 

そろそろ、お話を本の内容に移したいと思います。

この対談集には、二◯◯一年に収録された第一章、二◯◯二年に収録された第二章、二◯◯七年に収録された第三章、そして二◯◯八年に収録された終章の四つの対談が収録されている。

『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』―東浩紀+大塚英志― あとがき より

実に最初の対談から発刊まで7年が経過しているのです。

読んでいると時々ハラハラしてくるほど、二人の言説はすれ違います。なんだか冒険小説でも読んでいるのかと思うほどで、「大丈夫かな、これは無事に着地するのだろうか。このままどういう展開になってしまうんだろうか」と思う瞬間が何度もありました。

おそらくそれは大塚先生の論法なんだと思うけれど、東さんの言葉に、「でも」とひたすらにクエスチョンを投げ続けます。

東さんも「いやそれは違うと思います」と何度も何度も言うし、「違わないんじゃないの、じゃあどうなの」と大塚先生も一歩も引かない。

なんだかこれ喧嘩してるんじゃないかという気がしてくるくらい。

でも、東さんは「大塚英志は、僕がもっとも尊敬する同時代の評論家のひとりである。」とあとがきで述べているし、「ぼくの文芸系/オタク系評論の目標の目録には、じつは大塚英志の再評価というささやかな項目が入っている。」とすら言っているのである。

それに対して大塚先生は、すごく彼らし言い回しだけれど「認めている」と言っていて、かつ「分かってあげないというスタンスをこの後もずっととっていく」という言葉で、今後も面と向かって付き合っていくよということを言っていると私は取りました。

そういう関係性だからこそ、一度関係が途切れそうになっても(あとがき参照)最終的にこの討論は一応のまとまりを見せ、この本が私の手元にあるんだと思います。

7年の歳月には、とても意味があると思うのです。

 

ええと、この本の主題って……。おたく/オタク、でしたよね?

……まったくそういう印象が残っていないんですが笑

なんというか、大塚先生が、「東浩紀はこの状況でどういう言説を作っていくのか、それについてどう責任を取っていくのか」ということを、ひたすらに問い詰め続け、東さんがそれをかわし続ける(かわしているわけではないんだけど)という構図の印象しかないのです……。

特に第三章ですね。ここには第二章から5年の断絶があり、あとがきを読むとその章を通しての大塚先生の「苛立ち」の理由がちょっと分かる気がするのですが、とにかく大塚先生が東浩紀にイライラしてる。

なんでそんなに苛ついているのか、と東さんが何度か聞いてしまうくらい。白熱した章です。

私は、大塚先生が好きでこの本を買ったわけですが、これは東さんを好きな方に読んで欲しい本だと思いました。

そんなことを言わなくても、これは形としては東さんの本なので、余計なお世話かもしれないのですが。

大塚先生は結局「自分は東浩紀が何を考えているか知りたい、理解したい、だから話がしたいんだ。逃げないで答えろ」みたいなスタンスで、納得をしようとしてる、そんな感じがしました。

そして、大塚先生って7年間であんまり変わらないんです笑

でも終章で自分で認めるように、東さんには「変化」があるのです。

なんというか、大塚先生というフィルターを通して、その東さんの「変化」を楽しむことが出来る本なのではないかと思いました。

 

お二人の高尚な議論の内容については、申し訳ありません……。

ここでしっかり語れるほど咀嚼しきれていない私がいるので、敢えて触れません。

ただ、上記のような、東さんの思想の変遷を見ることもできるし、東浩紀という思想家の言説と対比することで改めて見えてきた、大塚英志の人間像というものにも触れることが出来ました。

大塚先生って、人を食ったようなところがあるし、自分の以前の経歴や言説を、平気で後になってぶっ壊したりするなんともクセだらけ、かつ毒を吐きまくる人なわけですが、実はすごくピュアな信念を持っていて、希望も持っている人な気がしました。

……と書いて、そういえば以前見た2012年発行の、宮台真司さんとの本「愚民社会」にまつわるニコ生での、大塚先生の語りっぷりを思い出しました。

もう今は、希望持ってないかも……。そちらも改めて見直す価値あり、ですね。

 

以上、拙い感想になってしまいましたが、東浩紀・大塚英志に関心のある方には是非読んでみてほしい一冊でした。

私は、評論でオーバーヒートした頭を、小説で癒やしにかかります……。

 

 


『物語消費論改』-大塚英志- を、読みました。

『定本 物語消費論』についての記事は、この本について書くために改めての定点観測として書かれたものです。

今年読んだ衝撃の本の中の一冊「物語消費論改」です。

内容が若干薄いのは、まだ私の中に完全に落ちていないからだと思っています。

もう二三度読んで、完全に咀嚼したいと思っています。

最近見たニコ生で、大塚英志先生が「パソコンを使えない、ネットも見ない」ということに驚きました。

そらTwitterもFacebookもでないよね……。

そんな彼の「Web以降の文脈」なわけですが、だから説得力ないということは全くありません。

「物語消費論」はきちんと現在形の文脈で再度語らせ、その色褪せなさを私は感じます。

(大塚先生はハッタリだといいますが)きちんとここ数十年の中で意味を持ってきたマーケティング論だと思うのです。

あんまり人に、価値観の押し売りのようなことはしたくありませんが、純粋にこの流れの「物語消費論」はコンテツを作ろうという人達には是非感じてみてほしい温度感だったりします。

というわけで、どうぞ。

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<2013年7月28日の記事です。>

 

さてさて。時間ができたので、書こうと思います。
私のバイブルである『定本 物語消費論』を受けての、新たな評論。
物語消費論は、もう30年近くも前になる(それもちょっと信じがたい話ですが)1980年代に書かれた評論なのですが、その後の「Web以降」を大塚先生が語ったものです。

最初に明確にしておくなら、本書はぼくの一九八○年代における論考「物語消費論」を「Web以降」の文脈の中で検証し、清算するために書かれる。
――物語消費論改 「創作する消費者」より――

そもそも私と大塚先生との出会いは『魍魎戦記MADARA』なのですが、これは年の離れた兄がいたからの馴れ初めで、タイムリー世代ではないのです。
田舎育ちで情報の乏しい環境だったため、タイムリーであるはずの『多重人格探偵サイコ』の連載にギリギリ気づいた位の私にとっては、大塚先生の書くものは基本、全て後追いでした。

今や標準(?)のTwitterやFacebookはもちろんのこと、ブログも書いていない大塚先生のことなので、後追いの私としては「今」を語る大塚先生の言葉に非常に興味があったので、どれも刺さる内容ばかりでした。
配信は12年12月10日となってますので、まだ一年経ってないですもんね。

初めて物語消費論を読んだ時、「これって未だに続いていることじゃん!」と衝撃を受けた、というのはすでに語った話ですが、誰もが「発信者」となり、情報を世に放つことが出来る状況というのは、webで一気に整ってしまったと言えますよね。

ライブドアブログが大流行していた頃から感じていましたが、それはTwitterやニコニコ動画などを通して、もう当たり前のようになってしまっています。

断片を組み合わせて、物語を作り発信する……。
2ちゃんのまとめサイトだって、ニコニコのMADだって、無料のアニメサイトだって、用はそういうことなんですもんね。
大塚先生が「初音ミク」の話をしているのも、とても興味深いです。

そして「3.11以降」の話。
くしくも最近、参院選があったばかりですから、「愚民社会論」というのは非常に考えさせられるものがありました。

……とまぁ、このまま書いていくと終わらない気がするので、以降は割愛しますが、これ、まだ序章のお話なんです。
このあと、更に深い話になりつつ、二章では「物語消費論」のコアな部分を再録しています。
なので、先にそちらから読み進めれば、これ一冊で十分かもしれません。

個人的に気持よくショックだったのが、『多重人格探偵サイコ』にまつわる話で…。
「また大塚に騙された!かれこれ8年くらい騙されてた!」と夜中に叫びだすようなことが書いてあって、爽快でした。
ほんと、大した人ですよこの人。

最近、東浩紀さんと大塚先生の対談『リアルのゆくえ』を読んでいるんですが、物語ってこのままどこへ行くのかなと思います。
今や、誰でも物語れてしまう時代、物語から更に物語を生み、自分の物語に潜っていく時代……。な気がします。

普遍的な物語なんてもう存在しないのだろうか、とか、誰かが物語やすいように(二次創作しやすいように)仕組まれた物語がより受け入れられるのだろうか、とか。

物書きになりたい私としては、もっと勉強しないといけないなと思う次第なのであります。
これはもう2,3回読まないと完全に理解できない気がするので、紙でも買おうかな…と思っております。

Web上での人々の「発信」に一言ある方、二次創作に興味関心・文句のある方、参院選、3.11、反原発運動……。
そういう、最近の「人」の動きと「頭の中」に思うところがある人は、是非読んでみると良いと思います。

 

 


『定本 物語消費論』-大塚英志- を、読みました。

大塚英志先生を、私が敬愛しているのは、常々声大きく言っていることなのですが、今、その大塚先生と東浩紀さんの対談本を読んでいます。

どちらも注目している人物で、かつ内容が濃すぎて必死になりながら食らいついておりますが、そんなこんななところで、大塚先生の著書について書いた記事を引っ越ししてきました。

今もなお、私のバイブルとして中心に据えられている本です。

私は物語の話をする時に、ついついこの論説を引き合いに出してしまうのです……。と言うくらい、血肉になっている内容なのです。

数カ月前の記事なのですが、今読んでもしっかり書けてる……笑。

もちろん多くは大塚先生の言葉を借りているわけですが、それがすらすら出てくるって、しっかり脳みそに焼き付いているってことですよね。

というような、お話です。どうぞ。

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<2013年7月22日の記事です。>

 

『物語消費論改』を読了したのですが、その前に。
やっぱりこの本なくして、そちらはお話できないと思ったのです。
すでに読了してだいぶ経ってしまっていて、内容はおぼろげではありながら、確実に私のバイブルとなっている本なのであります。
その名も『定本 物語消費論』です。

そもそも私と大塚先生の話をすると、長くなるのですが―― (さっそく割愛)

はい。
『ビックリマン』をモデルに語られる「物語消費論」から論説は始まっていきます。

ビックリマンシールは、チョコレートの食玩、つまり付加価値としてのおまけであるはずなのに、チョコレートはもはや食品としての意味をなしておらず、「お菓子を買う」という一見当たり前の消費行動を通して、実は「ビックリマンシール」を消費していた、というのがあの社会問題にまで発展した事象だった。

というのは自明として、では一体、ビックリマンの「何が」消費されていたのかということなのですが。

それが、ビックリマンシールの背景に隠れた「壮大な神話体系を持った物語」だというのですよ。

ビックリマンシールの裏には、ちょっとした説明テキスト(私の仕事ではフレーバーテキストと呼んでいるもの)が書かれているのですが、それだけでは単なるノイズでしかない情報の断片なのです。
しかしこれを集めていくと、徐々に断片は蓄積され、その全容が見えてくる。
それが、壮大な神話的物語なのです。

子供たちは、この物語を「補完」するためにシール集めに邁進した。
それは断片を利用した「物語の再構成」であり、ある種その神話は、一人ひとりに立ち現れるとも言えるのです。

消費されていたのはチョコレートでも、シールでもなく「物語」だったのだ、と。

もちろんこれを軸として、論説はどんどん展開していくのですが、この冒頭だけでも、かなりショッキングだったわけです、私は。

このあと、後の『同人誌』の走りである『聖闘士星矢』や『キャプテン翼』ものの二次創作漫画の話とかが、出てくるのですが、これについてのお話も目からうろこで。

それまでの「消費」は、与えられたものを享受するという受け身のものだったが、自ら「物語る」ことでの「消費」というのが今はある、というようなことを言ってるのです。

「世界観」という話が出てくるのですが、この二次創作はパロディではない、と。
『聖闘士星矢』の「世界観」の中で、ある種起こり得た可能性がある一つの物語、なのです。

「世界観」とは、語り手と受け手の間に横たわる、一定のルールであり、枠組みなのですが、その中で起こりえたこと、というのは実は無数に存在するはずなのです。
この時「オリジナル」はそれでなくなり、数ある物語の一つになってしまう。

そうやって、ただ受け手であったはずの人たちは、自らの物語を、物語るようになっている。
そうやって、「物語を消費している」のです。

これが80年台のお話だということに衝撃を受けたんですよね。
今の二次創作事情、これを更に推し進めたところにきているじゃないかと。
もう、みんな自分で「参加」しないと気がすまなくなってるじゃないかと。

この2つの章が、特に未だに心に残っております。
他の部分も、もちろん面白いのですが、大塚先生の独特の言い回しと論の進め方、実はたまに思考停止して頭に入ってこない時があり……(すみません)
いつかもう一度じっくり読もうと思っています。

と、これについてはもっと書きたいこともあるのですが!
それはまたの機会に譲るとして。

これを受けての『物語消費論改』が更に胸熱だったわけで……!
という話も次回に譲ります。

とにかく、個人的にはすっごくオススメです。
さすがにちょっと古いのですが、「今」を理解する上で、有効な文脈だと思います。


この頭であと何年生み出せるのだろうか、というお話。

最近、フォロワーさんから頂いたリプライで、話した内容に近いことを書いていたな、と思い、引っ越してきました。

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<2013年7月29日 23時55分の記事です>

 

今日、東浩紀さんのツイートで、とても心に残ったものがありました。

人間は30歳ぐらいまでに蓄積したことの展開でしか生きられない、というのはむかしだれかが言っていてそんなものかーとか思ったのだけど、42歳になって本当にそう思う。いま思いつくことはすべて20代に思いついている。本質的に新しいことはなにもない。あとは技術があがっていくだけ。  ――東浩紀

夏になると、どうも寝付きの悪くなる私は、最近夢ばかり見ています。

普段は全く夢なんて見ないのですが。
夢の中での物語や思いつきって、その瞬間は本当に素敵だと思うのですが、起きるとそれこそ夢のように忘れてしまう。
昨日も無理やり起き上がってメモして……なんてことがありましたが。
自分の頭の中には宇宙が広がっていると信じています。

つい最近まで、躍起になって音楽をやっていたりして、時間といえばそれにまつわることにしか使って来なかった。
大好きな本もそこそこに、映画や漫画やアニメは実はほとんどインプットしてこなかった。
そんな私が、今ゲーム会社で可愛い女の子たちのセリフを考えて、それが声優さんによって具現化されて……なんて正直思いつきもしない未来でした。
よく、そのセリフの内容についてはお褒めの言葉を頂きますが、正直私あなた達よりアニメ見てないですよ、萌えとか心底理解してないですよ、と思うのです。

それも一重に、物心ついた頃から毎日のように繰り返された「妄想ごっこ遊び」の賜物なのかなーと、思います。
というか、それ以外に思い当たるフシがないのです、なんで自分が通用しているのか分かりません。

そして今日、東さんのこのツイートを見て、考えたのでした。
私はあと何年、こうやって妄想から何かを生み出せるんだろうか、と。
技術というかテクニックというか、体系的なものは知りませんが、ノウハウとこだわりは蓄積してきたように思います。
最近は勉強も少しずつしていたり。

圧倒的に足りないのは、物理的なインプットだと思うので、最近こうして本を読み漁っているのですが。
でも私の本質は、強みは、この「妄想」力なのかなぁと。

磨くものなのか維持するものなのかは分かりませんが。
ただ、すり減るものなのであれば、どうやって付き合っていったものかと、考えるのです。

そういう意味でも、このタイミングで独り立ちしたいなぁという欲求は、自然なことなのかもしれないです。
少しずつではありますが、この妄想で現実を侵食していけたらと思っています。

生み出せるうちが、華。