読了した2つの物語の映像を見るために、思いついたように部屋を飛び出した先週土曜。
どちらも小さな劇場で残り僅かなロードショーを終えようとしていました。
作品の名前は、『華麗なるギャツビー』と『オン・ザ・ロード』。
原作である『グレート・ギャツビー』と『路上』で、読み込みきれなかった部分を、きっと視覚的に補完してくれることだろうと期待を胸に頂きつつ、鑑賞したのでした。
すでに個々の感想は上記の記事で描かせていただきましたが、偶然にも同日並べてみたことによって感じた、横串での思いを、形にしておきたいと思って、最後のまとめを書こうと思います。
ネタバレは……今回はあまりないかもしれませんが、念のためまだの方はご注意ください。
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くしくもこの2つは「アメリカ」を舞台にしたお話でした。
『華麗なるギャツビー』の作者である、F・スコット・フィッツジェラルドは、「ロスト・ジェネレーション」を代表する作家の一人として有名です。
また『オン・ザ・ロード』の作者、ジャック・ケルアックも「ビート・ジェネレーション」の旗手としてその名を轟かせました。
ロスト・ジェネレーションは第一次世界大戦の強い影響を受けた若者たちと、それによって生まれた作家達を指しています。
その子供たちに当たるのがビート・ジェネレーションであり、世界恐慌と第二次世界大戦を経験した世代なのです。
偶然とはいえ、無視することの出来ない繋がりがここに見えたのです。
『華麗なるギャツビー』には、第一次世界大戦の影が色濃く見えます。
主人公であるニック、そして中心人物のギャツビーはどちらも戦争から帰ってきた元軍人。
そして戦争故に引き裂かれたギャツビーとデイズィの若かりし頃、というエピソードもあり。
しかしながら、全体的な世界観としては、きらびやかなセレブ達の行き交う社交界が中心でした。
一方『オン・ザ・ロード』には、これいといって戦争という描写はありません。
しかし、若者の閉塞感が、何かを目指して一気に爆発するような勢いがあります。
現状を打開するために、どこかへいこう、何かを壊そうとする、渇望のようなもの。
まさしくカウンターカルチャーへと繋がっていく胎動のようなものです。
こちらは、お金がない、中流までいけないような若者たちの物語。
年代は違えど、その2つの場所から見るアメリカという国は、全く違って見えます。
かたやオープンカーを乗り回し、かたやヒッチハイクやオンボロ車で万引きを辞さない貧困の旅。
スピード違反をしても、証書を見せるだけで警察が頭を下げるギャツビー、しつこく疑われ、不当な罰金を課せられるディーン。
社会の構図といえばそれまでだけれど、当たり前のように貧富の差はあり、ただそのどちらであろうと関係なく、若者はいきいきとその国で、何かを求めて走ろうとしている。
そんなことを、浮き彫りにしてくれたような気がします。
みんな、血の通った人間がしていることなんだと。
この2つの物語は、全く同じ一つの構造を持っていました。
主人公が、「語り部」であることです。
『華麗なるギャツビー』では、ニック・キャラウェイが。
『オン・ザ・ロード』では、サル・パラダイスが。
二人が、自分の目で見た物語を、ありのままに文章に起こすのです。
それは、自分を中心とした話ではなく、一人の男を、描くという部分も、また同じ。
『華麗なるギャツビー』では、ジェイ・ギャツビー。
『オン・ザ・ロード』では、ディーン・モリアーティ。
語り部は、最後に、自分しか知らない「彼」を記録する必要性を強く感じ、一気に物語を描き上げるのです。
なぜ、語り部は、「彼」を記録しようとしたのか。
それは「彼」を理解している人間は「自分」意外にいなかったこと、そして「彼」が消滅してしまうから。
映画でのニックは、セラピー的にギャツビーの事を書くような描写がありますし、サルも、作家としての己の本能を強く刺激されてというのが本当のところだとは思います。
ただ、語り部としての彼らは「自分には彼を語る義務がある」という、どこか強い使命感を持っていたような気がします。
関わってしまったからでもあるし、彼から受け取った様々な楽しみや思い出、そして対する愛。
それゆえの懺悔、という感情もある気がしました。
映画では、終始「彼」を語る語り部としての視点ですが、原作ではもちろん語り部自身の物語も語ります。
ただ、語り部は「彼」との物語を通して「成長」はしません。
しない、というと厳密には違うのかもしれませんが、私が言いたいのは、主人公である語り部の「成長物語」としては描かれていないということです。
語り部は「書く」ことで物語の中に「彼ら」を残し、そして自分の物語をも終わらせるのです。
ハッピーエンドでも、成長劇でもないこの物語を、どのように見ればいいのか。
ただ、感じればいいのだと思います。
その人が、そこにいて駆け抜けた人生があった。それには、僕しか知らない秘密と輝かしさがあった。
それを、個々に記そう。あなたに伝えよう。
語り部は、誰ともなく誰かに、そう伝えたかったのではないでしょうか。
だから、あるがままに受け取って、彼らを感じればよいのかな、と思いました。
アメリカをつなぐ、父子という年代で繋がった、別々の若者たちの物語。
時代は違えど、社会や階級は違えど、そこには精一杯駆け抜ける人生という、輝きがあった。
自分に語る力がなくても、生きることで、生きたことを刻みつければ、それはいつか誰かの言葉によって語られるかもしれませんね。
誰ががきっと見ている、という言葉はあながち間違えていないかもしれません。
ニックとサル。
二人の語り部が、一心不乱に「彼」を書く姿が、私は一番好きでした。
良き友を。
たった一人だけでいいから、見つけたいものですね。