『もっと自由に働きたい』ー家入一真ー を、読みました。STAGE1

ここに辿り着くまでに、随分時間がかかってしまいました。もうとっくに読み終わっていたのに。

そういう怠惰でダメな自分というものと、今まで何度も対峙してきましたが、かっこ良く克服出来たことはありません。

克服、ってなんでしょうね? 困難とはなんでしょう。

乗り越える、ということが様々なシーンで求められますが、本当にその全ては乗り越えなくてはいけないものなのでしょうか?

 

そんなことを考えだしたら、この本を読めばいいのだと思います。

 

私が家入一真さんに興味を持ちだしたのは最近です。

お名前だけは知っていましたが、どんな人か知りませんでした。

Twitterアカウントを取り、このブログを作った頃、様々な人をフォローしていく中で、「そうだ。家入さん、この機会に追いかけてみよう」と、ふと思ったのが始まりだった気がします。

その選択は、大いに正解だったように思います。

 

いきなり色々衝撃的でした。

電話番号晒し口座晒し

特に口座晒しは、振り込みをしてもらった大学生のリアルタイムツイートを目撃したりして、価値観がぐらぐらと揺らされたのを覚えています。

そして今このブログを運用すべくレンタルしている「ロリポップサーバー」を作り上げた人だったわけです……。

 

彼がWeb上で行うさまざまな「祭り」の中の一つに、「本を旅させる」というものがありました。

家入さんの著作物を読み終わった人が、それをTwitterでつぶやき、読みたい人の元へ旅立たせるという企画。

もちろん家入さんの懐には一銭も入りません。一冊の本が回し読みされていくわけですから。

でも彼は「どんどんやれ。どんどん繋がれ」というわけです。

 

そして今、私の手元にあるのは、ダイスケ鹵(高木大輔) @DAISUKE_TABさんからスタートし、ruka ‏ @oym8rkさんを経て届けられた、『もっと自由に働きたい』なのです。

 

ここからは、いつものネタバレを含む感想ですが、そんなスタイルの家入さんの本ですので、いつもより少し踏み込んで書きたいと思うのです。

4つのSTAGEと、細かい項に別れたその一つ一つ全てに対して、思ったことを書いてみようと思うのです。

気になったら商店で買ってみるのも、Twitterでホストファミリーになってみるのもいいと思います。

ただひとつ思うのは、この本は手元において、何度も読み直す本かもしれないということです。

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家入一真33歳。

貧乏、ひきこもり、中卒。

逃げてばかりで、コンプレックスの塊の僕は、

ビジネスを立ち上げて「場」をつくり続けることで、

自分の仕事をつくっている。

 

この本は、厳しいと言われる時代を

悪ふざけして生き抜くための、

家入一真の「サバイバル・マニュアル」だ。

 

とことん自分に正直に生きろ。

 

『もっと自由に働きたい』 -家入一真- より引用

 

「現状から逃げ出したいと思っている人へ」と呼びかける冒頭は、家入さんの簡単な自己紹介からから始まります。

自分がどういう人間か、何を思っているか、この本がどういうものか、何を感じて欲しいか……。

よくある成功者の本は読んだことがないので、比べることが出来ないのですが、家入さんはこの本の内容を「これはあくまで僕の場合」と位置づけ、「あなたと僕は違う」「自分で考えろ」と言っています。

その上で「一つでもあなたの人生のヒントがあれば、嬉しく思う。」と冒頭を締めくくります。

 

何より好感が持てるのは、家入さんが自分の言葉で語っていることでしょう。

とてもフランクな話し言葉で、難しいことは書いていません。

今、目の前で、ビールでも飲みながらお話を聞いているような、そんな感じ。

この本全編を通して貫かれている雰囲気は、家入さんの生に近い「飾らない言葉」がまっすぐに飛び込んでくるからだと思います。

時折刺さるように心を打つのは、そのせいなのでしょう。

 

■STAGE1 「常識を疑って、逆いっちゃえば?」

このSTAGEは、社会常識に馴染めなかった家入さんが、どんな疑問を抱いて、その逆を行ってきたかというお話です。

 

◎1.非常識でいい

常識という名の下、人々は思考停止をしている。というのは、私自身、中学生くらいの頃から思っていたことでした。

常識を破壊するというアナーキーな行為を、私も評価するわけではありませんが、何も考えずそれに従うということは、結構怖いことだと思うのです。

「社会はそのように回っている」「そういう空気に暗に逆らえない」わかります。そういうものです。

でも。あなたはそれで本当にいいの?

常に自問自答する。考えることをやめない。それは私が思い続けていたことです。

常識を疑え、という言葉は強いですが、つまり思考停止しちゃいけないよ、ということだと思うのです。

考え始めれば始めるほど、私達の日常と常識は、思考停止で溢れているんです。

 

◎2.就職しない

私も就活はしていません。大学行ってませんし。

面接を繰り返して「私を使ってください」をしている中で決まった会社だから、「選ばれた」という意識が強くなって不満が生まれるんじゃないか?と家入さん。

でも、そもそも就活という道を選んだのは自分だよ、と。そう、就活をしないという道もあるんですよね。

私は、高校時代、親のすねをかじって大学に行く人達が嫌いでした。尖っていたんですね。

私の家も、家入さんほどではないけど貧乏で、仕送りはもらいませんでした。大学もお金がないと思って早々に諦めた口です。

でも大学に行く人達より、絶対将来形になると信じていたし、根拠の無い自信もありました。

自慢できる人生ではないかもしれないけれど、経験だけは豊富です。そして、その経験が正直に役に立ちました。

「なんだか変わった面白い子」と気に入って頂けましたし、いつの間にかそれがお金に変わってもいました。

人生何があるかわかりません。

何が言いたいかというと、大学生が嫌いですという話ではなくて、就活しなくても、就職できるし、ものにもなるということです。

 

◎3.就活しない

上のお話にも通じますが、就活ってなんでルールがあるんですかね?

みんな同じ格好で同じ時期に気持ち悪い、と家入さんも言っていますが、面接官も大変ですよね。同じような子ばっかりで。

私ならスーツじゃなくて私服で来て欲しいです。そっちのほうがよっぽど人となりが分かりますし。

面接が成功した話って、結構マニュアルから外れたようなものが多くないですか?

ひょんなことで話が脱線して盛り上がって、面接官に気に入られてしまったとか、どう考えても失敗の流れで、とんでもないアドリブが炸裂したとか。

家入さんの言う「売り」ってまさにそういうことで、面白みのない人なんて、私だったら一緒に仕事したくありません。

面白みは何も、人格ということでもなくて、一点突破の武器になるものなら、なんでも面白みだと思います。

実際一芸に秀でた人って、大抵どこか欠落してたりしますから。褒め言葉だと思ってください。

そんな自分を、自分の言葉で語れ、と家入さんは言います。私も賛成です。

口下手でもなんでもいいと思いますよ。

自分に物語を持つということ。何にもない人間なんていませんよ。そんなものガラクタだと思っているものが光ったりするのです。

それを、恐れず語ればいいのだと思います。きっとあなたのウリになります。

「アニメはほとんど見れてません、漫画もそこそこです。ラノベもまだ少ししか読んでいません。でも4歳の頃から毎日していた妄想ごっこで、私は物語を作れるようになりました。オタクの皆さんが白目をむくような可愛いキャラのセリフを考えられます。知識はこれから補完します。故にもっと最強になります」

以上、わたしのウリでした。こんなもんですよ。

 

◎4.三年も我慢しない

とってもとっても刺さりました。

私は一つの職場に3年いた事がありません。それを恥ずかしいことだと感じていた時期もありました。

人ができることができないというのは、私にとって単純にダメージでした。

でも、きっと自分はそういうことが出来ない人種なんだと、どこかで受け入れてからは変わってきました。

今の会社は、今までで一番フィット感がありましたが、次第に、これ以上の出世が自分に必要なのか、やりたくないことを学んで我慢してやることが、今後の自分の人生上のパフォーマンスをあげることにつながるのかと考えたら、途端に意味の薄い空間になってしまいました。

もちろん、学ぶこと、できるようになることは無駄ではありませんが、私が目指しているのはマネージメントができ、完璧にプロジェクトを回すこともできるクリエイターではないのです。

「いつか必要になるかも」に時間が割けるほど、人生余裕綽々に生きれませんから。

自分の人生のリソースは限られているということを理解する上で、一つの場所に長く居続けることだけが正解とは、言えないと思うのです。

家入流でいうと、3ヶ月でものを考えてみようということですが、その頃には私は会社を去り、一人になっています。

何ができているのか、考えていかなくてはいけないなぁと思います。

 

◎5.依存しない

ちょっと、難しいことを言っていると思います。

でも、きっと言いたいことは「思考停止するな」「思うように行動しろ、自分を優先しろ」「行動に伴う責任は自分で取れ」という3つだと思います。

自分一人で生きていけるようになれ、というのが一つのテーマだと思うので、そこから考えると、大きなものに依存しないということは、自分を流そうとするものを振り払え、切り離せ、ということなのではないでしょうか。

 

◎6.安定はいらない

今の会社を辞めると決めた時、一番初めに考えたのは「人」でした。

とてもよい仲間に囲まれて仕事をしています。

能力もあり、そして楽しい人達。毎日顔を合わせるのは楽しかったし、仕事をしていても阿吽の呼吸というところもあり……。

もう一緒に仕事ができないということは、自分の人生において重大な喪失なのではないか?と不安になったこともありました。

でも今は思っていません。

寂しさに変わりはありませんが、ここにいる限りこの人達としか仕事はできませんし、ここにいるがゆえの制約があるわけです。

人は出会い、分かれていくものです。ずっとは一緒に入れませんし、むしろそうやって人間関係は代謝させて行くべき代物だと思います。

もう一つは収入。ちょっと前までは本当に明日ともしれぬ生活をしていたのですが、今は同じ年齢の方と比べるとかなり頂いている方だと思います。

でも、それもなくなります。

不思議と怖くないんですよね。

それは、まぁ同じとは行かなくてもそこそこ生活はできるだろうと思える実力と自信が付いたこともありますし、昔抱いていた拘りがぽろっと取れたことも大きいです。

例えば、困ったら実家帰ればいいし、みたいな。昔は一ミリも考えませんでした。

今はネットとPCがあれば収入が得られるなんて、私も成長したものです……。というのは独り言として。

前に進むということは、居場所を変えるということでもある。

安住の地を離れていくことでもあるということを、肝に銘じる。

そしてそうあることを恐れない。むしろ楽しむ。というくらいでいきましょうよ、ということですね。

はい、私今、楽しいですから。

 

◎7.肩書きはいらない

これも、とっても刺さりました。

私、名刺作ろうと思っていたんですが、肩書ですごく悩んでいました。

作家、と書くと小説しか書かなそうだし。ライター、って書くとキャッチコピーしか書かなそうだし。

クリエイター、ってのもなんとなく。文字書かなそう。

とか思っていたのですが、もう名前だけでいいですね。と思ったり。

仕事は結局人、というのは火を見るより明らかだと、思っています。

私はわりと人情の人なので、担当さんの人間力があると、商品が良くなくても頑張ってください、私も頑張りますから!となってしまうタイプで。

でもそこまで悪いことだとも思ってなかったり。

その逆で、私はとにかく各社担当さんにファンになってもらうつもりで仕事をしてました。

「綾瀬さんだから」「綾瀬さんだったら」と言われたら私の勝ちなのです。そして私は笑顔でさらっとぶっ込んだりするのです。

だからやっぱり、名刺に肩書いりませんよね。

「綾瀬みう」というコンテンツであり、職業になればよいのですから。

一緒に何かしたい人に、私はなりたい。

 

◎8.憧れない

耳が、痛い。

私は、ずっと誰かに憧れていました。そしてその人の背中を追いかけに追いかけて。

それを繰り返してきました。

ただある時点で、一度色んな物がリセットされて、空っぽになった後に、今に至ります。

今はむくむくとやる気の虫ですが、少し前はそうではなかったのです。

その時にロストしたものの中に、「憧れの人」も含まれていました。でも今はいません。

そして、今後は設定しないで生きていこうと思います。

この項を読んでいると、「憧れの人」がいた時の自分がありありと浮かぶようです。

たくさんのものも学んだ、でも確かにそれを越えていける可能性は、今思えばほとんど0だった。

それを後悔はしていません。今、きちんと経験則として捉えることができるのですから。

これからの私は、今度こそ越えられなかったもの達を越えて行きたい。

願わくばもう一度、渾身の力を込めて進みたいと思っています。

だからもう、誰にも憧れません。私は、私です。

 

◎9.空気は読まない

ここは、納得の部分と、これは家入流でなかなか真似できないな、という部分が入り混じった項。

でも一貫して言えるのは「小細工なんかすぐボロが出る、ありのまま、自分の流儀でいこうよ」ということだと思います。

「そこはこうでしょ」に対して「なんで?」と言えること。それはただ尖って世間様に中指を立てるということではなく、自分の疑問と言葉で抗議できるということ。

空気を読まない、と自分はこうですと胸を張ることは、一緒かなって思いました。

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ここまで書いて思いました。

このままSTAGE4まで書いたら、優に2万文字を超える、と。

私のための記録でもあるので、それでもよいのですが、ブログという体裁を保っている以上、このまま書き続けるのは目に毒だと判断いたしました。

そして思いの外、時間がかかる!

次のホームステイ先も決まっていることですし、あまり時間もかけられません。

ただいま手元にある本はステイさせ、新しいものを自分用に購入して、続きをSTAGEずつに分けて書いていこうと思います。

 

次のSTAGE2は、家入さんの経験談を交えながらの、あえて「逃げ出す」ことの提案。

私の心に、一番深く刺さったSTAGEでした。

続きは改めて書かせて頂きます。

いったん、おしまい。

 

 

 


燃えよジャイアンツ! というお話。

気づけばもう10日もご無沙汰しておりました。

ここ数日の私の生活をここに記すまでもないとは思うのですが、それ相応の起伏もある日々でして。

こちらのブログを御覧の方にとっては周知の事実かと思いますが、会社を辞することに決めております私、最も伝えなくてはいけない人にそのお話を通し、退社を確定的なものとしました。

私はその人物を非常に尊敬しており、正直今後も一緒にお仕事はしたいなと思っている方なのですが、それとこれとはまた別の話で。

それによって私が会社に残るという選択肢はありませんでした。

しかしながら、素直にその気持ちは伝え、何らかの形で、その方とは関わっていけそうな雰囲気は作ることが出来ました。

肩の荷が下りたせいか、最近はどっと来てしまって、帰っても寝落ちの毎日でございます。

いえそれだけではありません。なんとなく食事も暴食気味ですし、どうならなんらかのストレスを感じているようです。

ただし、それが何かは分かりません!!

……昔からそんな感じです。困ったものです。ただ言えるとすれば、私、元気です。

 

久しぶりで前置きが長くなってしまいましたが、あなたは野球はご覧になりますか?

私は、今は見ておりません。なぜなら、テレビがないからです。

……なんだか一瞬惨めになりましたが、気のせいです。

 

その昔、私が秋田にいた頃は巨人ファンでした!なぜなら秋田は、巨人戦しか流れないからです。

兄と二人でよくテレビにかじりついたものです。

私が一番好きだったのは、まだ松井選手がいた頃で……。

この話、長くなりそうなのでやめましょう。

 

そんなこんなで最近は、めっきり野球事情に疎くなってしまった私でしたが、「楽天がパ・リーグですごいらしい」という話は聞いておりました。

「広島がAクラスで、クライマックスシリーズにでるらしい」という話も聞いておりました。

私の周りは音楽人が多いのですが、バンドマンは広島ファンが多いです。

「広島はバンドで言うならインディーズなんだ」と熱弁する友人もおり、何かしらのシンパシーを感じているようです……。

楽天と広島の日本シリーズだったら大変だなぁ、歴史的な試合になるなぁ、なんてぼんやり考えていたら、実家の兄から連絡が。

「18日のクライマックスシリーズ見に行かないか」と。

綾瀬家は家族関係は良好で、兄妹仲も良いので(自慢)私としては断る理由はありません。

二つ返事でOKしたわけですが、それがこの前の金曜日になるわけです。

 

はるばる友人と、車で東北道を駆け上ってきた兄と合流。

せっかくだし飲み明かそうということで、兄らに便乗してホテルを取ってもらっていたのですが、それが東京ドームホテルでした。

シングル予約だったそうですが、ホテルの都合で、何故かツインの部屋に一人……。

何この贅沢!

19階で東京の街も見渡せて、いきなりリッチな気分な私です。

 

その後後楽園(東京ドームシティ、っていうのかな……今は)で軽くご飯を食べ(早速飲み始め)いい頃合いでドームへ。

何時ぶりか分からないドーム。兄らは原監督の人形と写真をとってはしゃいでおります。すでにいい感じです。

一塁側に陣取った私達は、練習を見ながらスタメン発表を待ちます。

 

どーん!

……全然わかんない。笑

広島は梵選手しか分かりません。

肝心の巨人も、高橋由伸選手、阿部慎之助選手位しか分かりません。

村田、と聞いたら、「え、真一じゃないの?」という位です。すみません……。

でも、生で見るのは2回目なので、楽しくないはずがありません!しかも。

 

まったく事前情報なく訪れた私ですが、どうやらすでに2連勝しているらしく。

「運良ければ胴上げが見られる」という状況だったのです!

優勝の胴上げが見られるなんて、そうそうあることではありません。

次はいつ好機が巡ってくる分からない……!

これは否応なしに高まります!

 

「なんだー、結構空いてるね?」と思った東京ドームでしたが、試合が始まることにはもうびっちびち。

優勝の瞬間を待ちわびた巨人ファンと、もう後がない広島ファンの熱気で溢れていました。

 

試合ですが……。

ここで事細かく回を追っていくというのも、別にスポーツブログじゃないですので、思いっっっきり割愛させていただきます!!!

 

初回で広島に一点を奪われた時には、「ああ、広島本気だ!追い詰められて本気だ!」と戦々恐々としましたが、終わってみれば3-1で巨人の勝利。

そうです、優勝です。胴上げです!!おめでとうございます!!

 

もう次はいつ見られるかわからない、胴上げ。

私もよく知っている原監督が、高々と宙を舞いました。

それはもう、高々と。

スポーツ選手の胴上げはやっぱり違います。高い。そして長い!

オフィスで見る、退職者の胴上げとはわけが違います。

デスクワークのIT社員と、それが仕事のスポーツ選手を比べるのも野暮ですが、アトラクションばりの舞っぷりでございました。

 

インタビュー、表彰式。

そして選手が去った後も鳴り止まない応援歌。

みんなが、その栄光に酔いしれて、いつまでもいつまでもタオルを振っていました。

 

その後、兄が昔浦安に住んでいた頃のいきつけの「のぶし」というお店まで足の伸ばしたり、ホテル付近で飲み直したり、酔いに酔いました。

家族行事的なクライマックスシリーズ、兄妹の仲も深まり、良い酔い夜でございました。

 

ベットが2つありましたが、特にアクロバティックな寝方も思いつかなかったので、おとなしく片方で就寝。

 

読売ジャイアンツ、優勝おめでとうございました!

次は日本シリーズ、目指せ連覇!

 

お後がよろしいようで。


語り部としての物語-『華麗なるギャツビー』と『オン・ザ・ロード』- と、いうお話。

読了した2つの物語の映像を見るために、思いついたように部屋を飛び出した先週土曜。

どちらも小さな劇場で残り僅かなロードショーを終えようとしていました。

作品の名前は、『華麗なるギャツビー』『オン・ザ・ロード』

原作である『グレート・ギャツビー』と『路上』で、読み込みきれなかった部分を、きっと視覚的に補完してくれることだろうと期待を胸に頂きつつ、鑑賞したのでした。

『華麗なるギャツビー』の感想はこちら

『オン・ザ・ロード』の感想はこちら

 

すでに個々の感想は上記の記事で描かせていただきましたが、偶然にも同日並べてみたことによって感じた、横串での思いを、形にしておきたいと思って、最後のまとめを書こうと思います。

ネタバレは……今回はあまりないかもしれませんが、念のためまだの方はご注意ください。

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くしくもこの2つは「アメリカ」を舞台にしたお話でした。

『華麗なるギャツビー』の作者である、F・スコット・フィッツジェラルドは、「ロスト・ジェネレーション」を代表する作家の一人として有名です。

また『オン・ザ・ロード』の作者、ジャック・ケルアック「ビート・ジェネレーション」の旗手としてその名を轟かせました。

ロスト・ジェネレーションは第一次世界大戦の強い影響を受けた若者たちと、それによって生まれた作家達を指しています。

その子供たちに当たるのがビート・ジェネレーションであり、世界恐慌と第二次世界大戦を経験した世代なのです。

偶然とはいえ、無視することの出来ない繋がりがここに見えたのです。

 

『華麗なるギャツビー』には、第一次世界大戦の影が色濃く見えます。

主人公であるニック、そして中心人物のギャツビーはどちらも戦争から帰ってきた元軍人。

そして戦争故に引き裂かれたギャツビーとデイズィの若かりし頃、というエピソードもあり。

しかしながら、全体的な世界観としては、きらびやかなセレブ達の行き交う社交界が中心でした。

 

一方『オン・ザ・ロード』には、これいといって戦争という描写はありません。

しかし、若者の閉塞感が、何かを目指して一気に爆発するような勢いがあります。

現状を打開するために、どこかへいこう、何かを壊そうとする、渇望のようなもの。

まさしくカウンターカルチャーへと繋がっていく胎動のようなものです。

こちらは、お金がない、中流までいけないような若者たちの物語。

 

年代は違えど、その2つの場所から見るアメリカという国は、全く違って見えます。

かたやオープンカーを乗り回し、かたやヒッチハイクやオンボロ車で万引きを辞さない貧困の旅。

スピード違反をしても、証書を見せるだけで警察が頭を下げるギャツビー、しつこく疑われ、不当な罰金を課せられるディーン。

社会の構図といえばそれまでだけれど、当たり前のように貧富の差はあり、ただそのどちらであろうと関係なく、若者はいきいきとその国で、何かを求めて走ろうとしている。

そんなことを、浮き彫りにしてくれたような気がします。

みんな、血の通った人間がしていることなんだと。

 

この2つの物語は、全く同じ一つの構造を持っていました。

主人公が、「語り部」であることです。

 

『華麗なるギャツビー』では、ニック・キャラウェイが。

『オン・ザ・ロード』では、サル・パラダイスが。

二人が、自分の目で見た物語を、ありのままに文章に起こすのです。

それは、自分を中心とした話ではなく、一人の男を、描くという部分も、また同じ。

『華麗なるギャツビー』では、ジェイ・ギャツビー。

『オン・ザ・ロード』では、ディーン・モリアーティ。

 

語り部は、最後に、自分しか知らない「彼」を記録する必要性を強く感じ、一気に物語を描き上げるのです。

 

なぜ、語り部は、「彼」を記録しようとしたのか。

それは「彼」を理解している人間は「自分」意外にいなかったこと、そして「彼」が消滅してしまうから。

 

映画でのニックは、セラピー的にギャツビーの事を書くような描写がありますし、サルも、作家としての己の本能を強く刺激されてというのが本当のところだとは思います。

ただ、語り部としての彼らは「自分には彼を語る義務がある」という、どこか強い使命感を持っていたような気がします。

関わってしまったからでもあるし、彼から受け取った様々な楽しみや思い出、そして対する愛。

それゆえの懺悔、という感情もある気がしました。

 

映画では、終始「彼」を語る語り部としての視点ですが、原作ではもちろん語り部自身の物語も語ります。

ただ、語り部は「彼」との物語を通して「成長」はしません。

しない、というと厳密には違うのかもしれませんが、私が言いたいのは、主人公である語り部の「成長物語」としては描かれていないということです。

語り部は「書く」ことで物語の中に「彼ら」を残し、そして自分の物語をも終わらせるのです。

 

ハッピーエンドでも、成長劇でもないこの物語を、どのように見ればいいのか。

ただ、感じればいいのだと思います。

その人が、そこにいて駆け抜けた人生があった。それには、僕しか知らない秘密と輝かしさがあった。

それを、個々に記そう。あなたに伝えよう。

語り部は、誰ともなく誰かに、そう伝えたかったのではないでしょうか。

だから、あるがままに受け取って、彼らを感じればよいのかな、と思いました。

 

アメリカをつなぐ、父子という年代で繋がった、別々の若者たちの物語。

時代は違えど、社会や階級は違えど、そこには精一杯駆け抜ける人生という、輝きがあった。

 

自分に語る力がなくても、生きることで、生きたことを刻みつければ、それはいつか誰かの言葉によって語られるかもしれませんね。

誰ががきっと見ている、という言葉はあながち間違えていないかもしれません。

 

ニックとサル。

二人の語り部が、一心不乱に「彼」を書く姿が、私は一番好きでした。

 

良き友を。

たった一人だけでいいから、見つけたいものですね。

 

 


『オン・ザ・ロード』 を、見ました。

『路上』読了から数ヶ月。

丁度苦戦しながら読んでいた数ヶ月前、「ケルアックの路上が映画化されるらしい」というニュースが飛び込んできました。

映像での補完を楽しみに、約一ヶ月かけて読みきった、結構辛かった読書。

でも、良い読後感を頂いた作品でした。

『路上』の感想はこちら

 

8/30のロードジョーから時間が経つこと10/5。

雷に打たれたように立ち上がって、行ってきました。

同じく見そびれていた『華麗なるギャツビー』からのハシゴ。

華麗なるギャツビーについてはこちら

 

それではお馴染みのネタバレ含みつつの感想行きます。

まだの方は、くれぐれもお気をつけ下さい。

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いきなり結論から言ってしまうならば、いまいちでした。

でもそれは仕方がない気もするのです。

二時間19分じゃ語りきれないよ。

それだけな気がしました。

 

じっくり腰を据えられなかったせいもあり、私は原作を約一ヶ月かけて読みましたが、それを二時間で語るのは本当に難しくて。

重要なシーンを切り出して繋げて、意味を持たせていたのは分かるのですが、原作を読んでいない人にはハードルが高い構成のような気がしました。

 

同日に見た『華麗なるギャツビー』は、語られていない部分がありながらも、ギャツビーという人間を中心に、お話を組み立てることができていた気がしたのですが、『オン・ザ・ロード』に関しては、それすらも描き切れていない印象でした。

 

そもそも、映像化が本当に難しい原作だと思うのです。

原作がすでに、とても、ドキュメンタリーに近い内容だと思っています。

いわゆる、物語としてのお決まりの構造にははまっていないのです。

主人公サル・パラダイスが、ディーン・モリアーティと出会ってからの数年間を書き綴った手記を、一気にタイプライターで描き上げた……。そんな物語。

まさに劇中で、サルはメモ帳に鉛筆で、感じたことを書き綴っていきます。

紙がなくて、街中を吸い殻を集めながら、チラシを拾ってきて、それに文章を書きなぐることもありました。

そうやって集めた記録達を、タイプライターで一心不乱に起こしていく、というシーンが後半で描かれます。

 

一つのエピソードに対し、一から十まで描かれている。原作はそんな印象です。

はっきり言ってそれが冗長に感じることは多々あったのですが、それによって生まれるエピソードのアウトラインがあって。

だからこそ、一部を抜き出してそれを描くには、どうしてもいろんな情報が不足しているように感じてしまうのです。

選ばれて切り出されたエピソードが「いまいち」弱い。

だからこそ、全体的に消化不良感が残ったのでしょうか。

 

また、中心人物であるディーン・モリアーティ。

「気が狂ったように」活動的で、本能的で、支離滅裂で破天荒すぎる生き様。

アメリカ大陸の路上を、サルと一緒に転がるように行き来する男。

彼の「気違い」っぷりを、表現しきれていなかった気がします。

勢いが、足りない。

彼の破天荒さは十分に伝わってくるとは思うのですが、原作と比べるとトーンダウンしている印象は拭えませんでした。

それもこれも、演出がどうというより、やはり圧倒的に「尺」が足りないだけな気がしてなりません。

シーンをかいつまんだだけでは、結局彼の全てを語ることは出来なかったのではないでしょうか。

 

そして、原作の大部分を締める「路上」について。

サルのヒッチハイク生活。

ディーンの運転する車での生活。

何度も訪れる土地。そのたびに意味を変えていく街達。

そこに圧倒的に広がるアメリカ大陸と、どこまでも伸びる道路と「距離」、その上を駆けていく「スピード」と「時間」。

これをどれだけ見せてくれるかと思っていたのですが……。

残念なほど、感じることは出来ませんでした。

演出が難しいのは、承知なのですが。でも、きっとそれがこの映画に一番期待していた部分だったので、残念でした。

 

この映画も、結末は『華麗なるギャツビー』と近いものがある気がします。

深く結ばれていた主人公と中心人物との「別れ」そして、その中心人物の「消滅」によって、物語が終わる。

劇中の「別れ」のシーン、ディーンの涙はとても感動的なものでした。

ですが、小さく積み重なった「語りきれていない」部分が、ここで最大値化して、ディーンの切なさは描けても、その別れの「意味」までは描けなかったのではないか、と思いました。

 

 

ここまで書いて、ものすごくこの映画を酷評しているような気がしたのですが、鑑賞後の後味としては悪くなかったです。

取るに足らない映画、ではありません。

興味のある方は、是非見てみてください。

原作を途中放棄しそうになりながら読んだ身としては、理解できていないところ、精神的にほぼ読み飛ばしに近いことをした部分もあったと思っていて、映像により印象が補完されたことは嬉しい事です。

(実際、原作を読めた気がしていなかったのですが、映像と比べるとこんなに語れるくらいには読めていたと発見しました)

ちょっと気合がいりますが、腰を据えてもう一度原作に挑戦してみたい気もしています。

 

ビート・ジェネレーションとは何だったのか――

この映画で、感じることができると思います。

 

 


『華麗なるギャツビー』 を、観ました。2

昨日は、『華麗なるギャツビー』の後に『オン・ザ・ロード』を見たのですが、あいだの時間内にギャツビーの感想を書ききれず、中途半端になってしまいました……。

早速ですが、残りの感想を書いていきたいと思います。

原作『グレート・ギャツビー』の(正直書き直したい)感想はこちら

『華麗なるギャツビー』の感想前半はこちら  

 

引き続き、ネタバレ含みますので、まだの方はご注意ください……。

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前回の感想で、トムがニックを連れて、愛人のアパートでどんちゃん騒ぎするところまで書きましたが、補足を。

トムの愛人マートルはアイラ・フィッシャーが演じております。

原作では、グラマラスで、いわゆる男好きする女性という感じで描かれていますが、確かにグラマラス。

でもなんというか、アメリカングラマラス……。

私の好みじゃなかったです。(そういう趣味はありませんが)

薄汚れた炭鉱町で車の整備工をしている甲斐性なしのジョージ(ジェイソン・クラーク)の妻、ということで、下町女なわけですが。

ファッションやメイク含めて、いい意味で「下品」な感じが出ていて、きらびやかな社交界のセレブ達の描写とよい対比になっていたと思います。

ちなみにジョージは原作を読んだ時のイメージにピッタリのキャストで、演技もとても良かったです。

 

さて、メインキャラが出揃ったところで……実はまだギャツビーが登場していません。

その美しさも、莫大な財産も、すべてが完璧な男 ―ジェイ・ギャツビー。 だが、彼には〈秘密〉があった―。

宮殿のような豪邸に暮らす、謎めいた男がいる。彼の名は、ジェイ・ギャツビー。どこから来たのか? どうやって大富豪になったのか? 仕事は何をしているのか? いったい何のために、毎夜のように豪華絢爛なパーティーを開くのか? 誰一人その答えを知らない。

- 『華麗なるギャツビー』 公式サイト 「ABOUT THE FILM」より抜粋 -

ニックは、隣人ギャツビーの招待状を持ってパーティーへ訪れますが、その他の人々は誰も招待状など持っていません。

勝手に集まってくるのです。

そしてその誰もが、ギャツビーを知らない。会ったこともない。

それを強調するような演出。

ギャツビーは登場人物が全て出揃って、その関係性などを大体私達に伝えたところで、華麗に、満を持して登場するのです!

そしてそのジェイ・ギャツビーを演じるのは言わずと知れたレオナルド・ディカプリオです。(ちなみに私は洋画をほとんど見ないので、ここできゃーきゃー言いません。)

32歳の役でしたが、もう38歳になられたんですね!

さすがにちょっと老けたな、って思いましたが、初登場の際の笑顔は、それはもう素敵でした。

 

初めてギャツビーが現れるパーティーのエピソードで、ニックとジョーダン( エリザベス・デビッキ)が良い雰囲気になる描写が描かれます。

原作ではそれをきっかけに、二人は親密になっていくのですが、それがあまり描かれていなかったのが残念です。

なんだかんだ、そのパーティーのシーンだけだったのでは……。

そのせいか、最後にニックとジョーダンが決別するシーンの重みがいまいちだった気がします。

でも、今作でのニックの立ち位置は、徹底的に「語り部」として描かれていたので、きっとそれで良かったんだと思います。

 

そのパーティ以来、ニックと顔見知りとなったギャツビーは、己の目的のために、積極的にニックに近づいていきます。

ニックを誘い、ニューヨークの「床屋」へ行くエピソード。

黄色いオープンカーでブイブイ運転して向かうわけですが、やっぱりアメリカの映画ってすごいですよね……。

あんなのどうやって撮るんでしょう。

日本で行ったらベイブリッジみたいなところであんな危ない運転……。

規模が違いますよね、やっぱり。

そして1920年代だと言われたら納得してしまうあの街並み風景。

CGなわけないとは思うんですか(CGなのかな……!? いや、CGな気がしてきました。)

国土が広い分、日本のように均一的に近代化していないから、良い風景もたくさん残っているんですよね、きっと。

ここで登場する怖いおじさんウルフシェイム氏は アミターブ・バッチャンが演じておりました。

原作を読んだときは、もっとでっぷりした本当にインチキな人物を想像していましたが、もっとシュッとした感じで。

ただ、よりマフィアっぽくていい味出してました。

 

段取り揃って、ついにギャツビーとデイズィの対面。 このエピソードのディカプリオの演技は秀逸でした!

5年ぶりの再会、彼にとっては悲願だったわけですが、その5年分の想いがゆえの緊張と支離滅裂さが見事に演じられていました。

すごく可愛かったです。笑

こっちまでニックの気分になり、ハラハラしたり居た堪れなくなったり……。

ただ、そこから二人の距離が縮まり、ギャツビーの城へデイズィが招かれたパートは、本当に美しかったです。

この作品で、おそらく一番幸せで満たされた時間だと思います。

それ故に、デイズィの涙が重かったです。

 

私は、原作を読んだ時、ギャツビーが一人でから回っているだけのように読み取っていたのですが、そんなことはないんですね。

デイズィは、ギャツビーとの再会を本当に喜んでいて、心から楽しんでいた。

そして、再び愛は蘇る。

でも、二人の間に横たわる「5年」という歳月の意味と、「過去」というものに対する想いのズレが、歯車を狂わせる原因だったんだな、と認識を改めました。

 

デイズィはパーティーに招かれ、トムはこの時から二人を疑い始める。

パーティーを抜けだした二人は、愛し合いますが、「このまま逃げたい」というデイズィと、それに異を唱えるギャツビーの間に、「想い」のズレが生じ始めます。

ギャツビーは、ニックに「過去は変えられる」と言います。

そしてニックは「求めすぎだ」と。

 

ギャツビーは己の崇高な理想のために、過去を必死に塗り替えようとしていました。

デイズィと逢瀬を重ねながら、トムと別れさせるため説得を繰り返します。

ついに決心したデイズィは、トムにそれを切り出すためのお茶会を開きます。

ただ、ニックとジョーダンが立ち会うというのが条件でした。

 

このエピソードの緊張感と、心情の微妙な変化の様子。

私はまたここで、原作を読みきれてなかったなぁと感じたのでした。

原作を読んでいた印象では、デイズィの心はパーティーの時から少しずつ離れ始めていて、それでもギャツビーが強引に彼女を説得して、事を進めようとしていたんだと思っていました。

しかし、このエピソードでの様子を見た時に「ああ、デイズィは本当にギャツビーを選ぶ気だったんだな」と。

しかし一度に愛人と妻を失いそうになっていたトムは必死の攻防を繰り返し、デイズィは動揺していく。

緊張と動揺から始まり、落ち着きを取り戻したデイズィが夫を蔑み調子づいて来たところから、また動揺し始めて……という一連の様子が手に取るように分かり、原作がとてもよく補完されたエピソードでした。

ここでもギャツビーは「求めすぎだ」と言われます。事もあろうにデイズィに。

「過去は変えられない」と、彼女は言うのです。

今はあなたを愛している、それでいいじゃない、と。

 

ここで、ギャツビーとデイズィ、男と女の違いがはっきりするような気がするんです。

デイズィにトムを「愛したことはなかった」と認めさせたいギャツビー、一度は愛したという事実を消すことはできないと思うデイズィ。

今愛してるって言ってるんだからいいじゃん!と思うわけですが、それじゃダメなんですよね、ギャツビーは。

それは彼の理想のせいなのです。

思い描いたあるべき形のための。 そんなのに拘らなかったら、二人は結ばれたかもしれないのに。

 

デイズィからしたら、離れ離れになってしまった想い人が、白馬に乗って現れて、不遇の自分を迎えに来てくれた……という、途中までは完璧なシナリオだったはずなのに。

一方ギャツビーは、デイズィのために全てを用意した。

彼女を迎えに行くために、死に物狂いで這い上がって、巨万の富と名声を手に入れ、それは全てデイズィのため。

ギャツビーの描く理想の二人の将来にはそれは必要なもので、彼はその理想とデイズィにひたすらに一途にあり続けた。

 

でも、食い違ってしまったんですよね。

 

ギャツビーは最後まで、崇高な理想とデイズィを信じ続けた。

愚直なまでに。

信じたかった、といった方がいいのかもしれませんね。

それはおそらく彼の人生の全てで、それが崩れ去ってしまったら、彼には何も残らないのですから。

 

最後に、トムは確かにバチは当たったけど、デイズィが残った。

でもそれは愛の勝利とか、美しいものではないと思います。

彼は最後までズルかったし、一生自分が苦しめられるであろう嘘をついた。

それによって心を入れ替えて一生デイズィを大事にしたとしても、それは十字架を背負った贖罪でしかない。

またデイズィも、一生忘れられない、そして償うことも出来ない罪を背負ってしまった。

 

栄華は瞬く間に過ぎ去る。 良い時は一瞬だけ。

なんというか、諸行無常ですね。

 

ただニックだけがギャツビーを愛し、彼だけが、ギャツビーを語る。

語り部として生きる彼は、これから何を見るんでしょうね。

 

さて、私の拙すぎる原作の感想を改めることでまとめとしましょう。

いつかの日の想いを胸に、莫大な富を得て、満を持して彼女の前に現れるギャッツビー。その彼の並々ならぬ想いというのは、キュンと胸を打ちそうなものなのですが、デイズィにとっては結局「遅すぎた」再会で「タイミングが悪かった」だけなんだなぁ、と。

再会が遅すぎた、それはひとつ真実。

でもギャツビーの登場に、デイズィは胸を焦がした。 二人は愛しあった。でも。

過去を塗り替えようとしたギャツビーと、過去は過去として、二人の新しい日々を願ったデイズィの、見ていた未来は違っていた。

私の大嫌いな「男はフォルダ分け、女は上書き保存」という言葉で説明するならどういう解釈になるのか?

あえてそれについては言いませんが、「男は後ろばかり見ている、されど女は前を向いている」というのは、いえるんじゃないかなぁと。

「男はロマンチスト、女は現実主義」というのも言い得て妙ですね。 型にはめたくはないですが。

「男」と「女」ってほんと、こうだよなぁ。というのが、一番の感想です。

どうやらこの感想だけは、変わらなかったみたいです。私。


『華麗なるギャツビー』 を、観ました。1

観たい映画があったことをふと思い出した雨の土曜日。

だいぶ前のことだったので、もう上映が終わってしまっただろうと思っていたんですが、まだやっている「目黒シネマ」という映画館を見つけ、慌しく飛び出して観て参りました。

初めてで少し迷ってしまい、10分遅れで到着……。

まだ始まったばかりですよ、と優しく係員さんが案内してくれて感動しました!(単純……)

目黒西口ビルの地下一階。

最新の映画ではなく、こだわって選んだラインナップを上映するタイプの映画館だと予想。

頂いた配布物も手作り間の溢れる、素敵なところだな、と思いました。

滑り込み、というか遅刻のため、後方通路側というあんまりよい席ではなく、ちょっとだけ心残りでしたが楽しんできました!

それでは以下、例のごとくネタバレを含む感想でございます。

まだの方は、くれぐれもご注意お願いします。

 

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やはり映画ということで、かなりの部分のお話は割愛されていました。

原作『グレート・ギャツビー』の(拙すぎる)紹介はこちら。

語り部となるニックが戦争へ従軍後、故郷へ帰ってきて、ロングアイランドに移住する理由となっている彼の孤独は特に描かれていなかったような気がします。

やはり中心である「ギャツビー」に重きが置かれ描かれていました。

原作では、ニックが、ギャツビーの豪華絢爛な宴に招待されるまで結構なエピソードが挟まれるのですが、それは原作が時系列に沿って描かれているからで、映画では演出上、かなり冒頭にその宴の様子が描かれていました。

まず、ギャツビーの邸宅の大きさにびっくりしまいた。邸宅というか、お城でした……!

原作を読んでいるときは、なんだか規模感がピンとこなかったのですが、なるほど、お金持ち。

いえ、大富豪!!です。

舞台は1922年のアメリカですが、宴で闊歩するセレブ達のファッションはかなり現代的な解釈だったような気がします。(それがすごくおしゃれでした!)

バンバンと流れる音楽もまた、わざと現代解釈のものが混じっていたような気がします。(もうクラブみたいだったし)

その辺り、おそらく演出の狙いだと思ったのですが、後で記事など調べてみたいなぁと。

とにかく、原作ではイメージしきれなかった「狂ったような」どんちゃん騒ぎの様子は手に取るように感じることができました!

煌びやかな社交界の、どこか馬鹿げたお祭り騒ぎ。

おそらくこの映画の、もっとも華やかなシーンのひとつだと思います。

 

そして、トムとデイズィの邸宅に初めてニックが訪れるエピソード。

これもまたびっくり。

トムは確かに、富豪の子息ではあったのですが、原作を読んでいたときのお家のスケール感は結構狭くて……。

私がイメージしていたのは、悠々自適に暮らす「日本」のセレブくらいの規模だったと気づきました。

めっちゃでっかい!!!!

お城まではいかないけど、お屋敷、というやつです。

アメリカのセレブの規模感を見せつけられて、はわわ……となったのでした。

デイズィですが、原作を読んでいたときは、髪が長めのゆるふわ愛され系を想像していましたが、キャリー・マリガン演じるデイズィはもっとこう、NY最先端のオシャレガールという感じで最初はちょっと違和感がありましたが、すぐにそのかわいさがぐっと来るようになりました!

旦那のトムはジョエル・エドガートン

私は洋画をまったく見ないので、どんな役者なのかわかりませんが、いい感じでやな奴でよかったです。笑

 

その後のトムがニックをつれて、愛人とのアパートでどんちゃん騒ぎするシーンも、原作のイメージをよい感じで補足してくれました。

どうしようもなく俗なホームパーティー、馬鹿みたいに酔っ払ってめちゃくちゃになっていく様子、ニックがふと我に返る描写など……よく描かれていたと思います。

 

 

と、ここで一時中座。

この後本日二本目の映画『オン・ザ・ロード』を見に行くのです。

続きはまた後で。


『グレート・ギャツビー』 を、読みました。

雨の中、目黒まで。

見よう見ようと思いながら、上映が終わってしまったと思っていた『華麗なるギャツビー』をまだ上映している「目黒シネマ」という映画館を見つけたからです!

こちらは本でも読んでおり、その時の記事を引越ししてきました。

自分でも読み返しながら、映画の感想をこれから書きたいと思ってのことだったのですが……。

すっごくお粗末な内容で正直辟易しています。

映像を見たことで、

デイズィにとっては結局「遅すぎた」再会で「タイミングが悪かった」だけなんだなぁ、と。

ここに対する考えが全然変わったので、その辺りにも焦点を当てて、映画の感想のほうは書きいたいと思います。

では、そのお粗末な本の感想のほうを……。↓

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<2013年7月14日の記事です>

 

『物語消費論改』について書きたいのですが、これは少し腰を落ち着けた時のほうがいいなと思うのと、今日ちょうど『グレート・ギャツビー』を読了したので、忘れないうちにと思いまして。

会社のPに進められるままに、Kindleさんでポチりました。
映画もやっているそうですね。そっちも是非見たいと思っております。

翻訳物、ということで、正直なかなかすっと体に入ってこなくて、読むのに手こずりました。
完全に頭で理解できていないところもあるかとは思ったのですが、名著ですし、細かいところは多少読み飛ばしても、物語の持つ素敵な部分は手繰り寄せられるだろうという持論のもと、読ませて頂きました。

とても良かったです。
ギャツビーとトムいう人物を通してのアメリカ的な云々とか、何を描こうとしたかとかいう主題などはは正直あんまり興味がなくて。
ギャツビーとデイズィの間に横たわる恋物語、私はそれに一番興味がありました。
(それについてPからお話を聞いていたからというのもありましたが)

いつかの日の想いを胸に、莫大な富を得て、満を持して彼女の前に現れるギャツビー。
その彼の並々ならぬ想いというのは、キュンと胸を打ちそうなものなのですが、デイズィにとっては結局「遅すぎた」再会で「タイミングが悪かった」だけなんだなぁ、と。

「男」と「女」ってほんと、こうだよなぁ。というのが、一番の感想です。
きっとこれを読んでそれなの!? という感想な気がするのですが……。

男女の恋愛は、年齢や規模が変わっても、絶対本質は変わらないなと、思うのです。

改めて映画を見てみて、読み取りきれなかったところを感じたいなと思っています。

ちなみに野崎孝さんの訳でした。
村上春樹さんの訳もあるみたいですよ。

 

 


これから先のこと、というお話。

昨日は、お取引先の方と久しぶりに会食に行ってまいりました。

3月ぶりで、もうこんなに時間が経ったんですね……なんてお話をしながら。

その間に新しいゲームがリリースされていたりもして、お互いの近況を報告しながら美味しい日本酒やらお刺身をぱくぱくと食べてきました!

 

何度かお話しておりますが、私は現職を辞することに決めております。

そのお話をしたいというのが、私の本当のところの用件だったりしたのですが。

とても驚かせてしまい……。

ですが、私が今どんな気持ちで、これからのことをどんなふうに考えているのか、というお話をしたところで、急に話がヒートアップ。

独立する前のお話や、どうやってここまできたのかというお話を聴くことが出来ました。

共感する部分も多く、逆に私が言っていることに、色々と共感して頂き……話は弾むばかりでした。

 

その後は、これからどんなものを作っていきたいか、であるとか、機会があったら一緒に何か作れたらいいですね、というお話までさせて頂き、とても楽しい夜になりました。

 

私が漠然と不安がないのは、こういう方々に現職を通して出会えたことでもあるし、その方達が、私のことを少なからず「面白い」と思ってくれているからだと思うのです。

じゃあどうやってご飯を食べるの?というところは、まだきちんと形になった計画としてはあるようでないのですが、でも大丈夫だと思うのです。

むしろ、私の人生の中で、初めてそういう自信のような、確信のような予感があるからこそ、「ひとりだち」という選択を恐れずに出来るのだと思っています。

 

これをご覧のあなたも、何か作りたいものがあったら、是非話しかけてください。

私にできることは一部ですが、一緒に何かできるかもしれません。

今後共、どうぞよろしくお願いします。


秋雨と言の葉の庭、というお話。

昨日から続く秋雨。

秋は大好きな季節です。

雨は億劫ですが、嫌いじゃありません。シチュエーションによってはとても好き。

 

昨日、久しぶりの終電近くの電車に乗って最寄り駅に辿り着いた頃には、雨脚は強まっていて、仕方なくローソンでビニール傘を購入しました。

12時を過ぎたらご飯は食べないルールなのですが、どうしても我慢できなくて外食で中華。

ビニール傘を打つ雨の音を聞きながら、日付が変わった暗い夜道を帰りました。

考えていたのは、さきごろ見た『言の葉の庭』です。(その時の感想はこちら。かなり下のほうです。)

 

Twitterでこんなツイートを見かけました。

私なりの解釈では 雨=「降っている無意識」「深みのあるもの」「守りのあるもの」と考えている。箱庭の解釈でも水の領域は無意識を示すものであるし、何か表立って意識の出来ないものや、内に秘めている思考や情緒のようなものなのではないだろうか。

雨から身を守る傘自体が守りの構造をするものであるし、雨の日に傘の下でいること自体安心感を招く要素があると思う。そんな雨の日に行なわれるユキノとの交流は、お互いを無意識まで掘り下げての非現実的な心的世界の交流だったのかもしれない。

それは勿論タカオにと安心感を与えたが、二人の関係性から見ると、とても危険な交流でもあった。なんとか普段は外への顔を取り繕っている二人が、深い世界で交流することのリスクは大きいのではないだろうか。

-ちさ@clearfantasistaさんの 2013年9月29のツイートより転載-

確かに、雨の日に、誰もいない広大な庭園の東屋の下で何度も重ねられた2人の時間は、「この世ではないどこか」に近い場所だったのかもしれません。

一度外に出たら濡れてしまう、でもここにいれば安全、という二人しか知らない場所。

ちささんは、「リスクが大きい」と言っていますが、それはよそ行きの自分でない、ありのままの状態での交流だったから、ということなのでしょうね。

距離は縮まりやすく親しくなりやすいけれど、一度違えば、素肌に刃物を突き立てるように、無防備な状態の相手を傷つけることも出来る。

 

最後の踊り場でのやりとり、あの時も2人は生身だったなぁ、と思います。

あの時タカオはユキノを明確に「傷つけようとしていた」し、それはユキノは傷ついたけれど、その刃物で、最後の薄皮一枚残った彼女の「建前」を突き破ることができたんじゃないかなぁ。

その後のユキノちゃんの行動には、お恥ずかしながらぐっときちゃったのでした。

 

そして今朝も、雨。

ビニール傘を伝う雨粒の流れを見ながら、会社に行きたくないなぁと、とぼとぼ歩く私。

ユキノはもっと重いものを背負っていたと思うけれど、こんな感じで、少しずつ目的地を外れて、あの庭園に向かっていたのかなぁ。

 

「水」は、私達が生まれる前に包まれていたもの。
私は川が好きだけれど、水の流れる音って、どうしてあんなに気持ちを落ち着かせてくれるんでしょうか。
そして、この雨音も。

 

 


ご無沙汰しております、というお話。

ご無沙汰しております。

あまり「忙しい」お話をしてもとは思うのですが、ここ数日走り回っており、ブログの更新が出来てませんでした……。

 

まずはお世話になっている声優事務所さんとの会食。

とはいっても、バックオフィスの方々とのお疲れ会のようなものでしたが、何名かキャストの方も来て頂き、それはもう楽しい夜でした。

私はといえば、キャラクターに「声」がつくことによって息を吹き込まれるというのは、いかに感動的なことか……ということなどを熱弁し、若干暑苦しいを通り越してうざかったのではないかと冷や汗です。

皆さん本当に気持ち良い方々で、今後共本当によろしくお願いします!ということで会は閉められました。

 

そこから泊りがけでお引越しのお手伝いです。

何を隠そう私、荷造りと梱包の鬼なのです。(これまで様々な職歴がありまして……いつかお話する時がくるかもしれません)

我ながら獅子奮迅の働きで、忙しくてまったく荷造りが進んでいなかった友人の荷物を、あれよあれよと詰めて行き、「一家に一台」と言われた私です。

無事荷揚げを見届けつつ、美味しいご飯を食べさせて頂き、そのまま新居へ。

横浜の!マンション!です!

新築らしく、何やら鍵がすごいことになっていたりして私はひとしきり興奮です。

いいなぁ、お家ほしいなぁ……。からの、美味しいご飯、海沿い。おしゃれすぎる。

そして翌日は荷受と荷解き。この日は他の友人も手伝いに来たので、それほど忙しくなく。

完璧に詰めた漫画を完璧に棚に再現しつつ、途中から読書……。

そして引っ越し主の友人のワンコと戯れておりました。

押し倒されて上に乗られて、首をなめられたり舌を突っ込まれたりしておりました……。(相手は小型犬です)

 

その翌日はこれまた友人のライブを見に行ったりと、帰るとバタンな生活。

気付けばもう5日ほど更新が滞っておりました……。

 

最近すでに、家入一真さんの『もっと自由に働きたい』を読了していて、今は津田大介さんと池上彰さんの『メディアの仕組み』を読んでおります。

そちらも追々紹介させて頂きたいと思っています!

 

簡単ですが、近況報告ということで。