『MEAN STREET』- ART-SCHOOL – を、聞いてます。

今夜の作業用BGMはART-SCHOOLです。

聞き慣れて安心した音楽っていいです。

必要以上に耳に入ってこなくて、でも好きな部分は雰囲気として漂っていて。

頭が持って行かれすぎることもないし、手が止まることもない。

歌詞を頭で追いかけながらでもキーボードを打てる。

そういう曲とかバンドってそんなに多くないです。

多分聞いた回数がものをいうので。

私にとってARTはそういうバンドです。

誤解を恐れず言うなら、ART初期は、そういうバンドです。

そんなわけで過去記事を引っ越してきました。

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2013年7月19日の記事です。

 

ART-SCHOOLが好きです。
誤解を恐れず言うなら、初期が好きです。
結構いつ聞いても、しっくり来るのです。

木下さんはきっと、簡単な人ではなくて。
メンバーも何度も変わっていて、試行錯誤しながら、浮き沈みしながらも、きっとバンドじゃなきゃダメなんだろうなって思うような生き方をしているように、見えます。

一度でいいから、お話してみたい。
勝手に通ずるところがたくさんあって、きっと似てるんじゃないかなと、おこがましくも思っています。

繰り返しになりますが、私は初期が好きです。
音楽というやつは、本当にいい加減だと思っているのですが、そのいい加減具合は絵画と近いと思うのです。
それは、時に技術が不問になるからです。
厳密に言うと違うのかもしれないけれど、音楽も絵画も経験している私自身はそう思っています。

ざっくり言ってしまうと、下手なはずなのに、めちゃくちゃなはずなのに、そこに意味が成立してしまう。
荒削りであることが、美しい事とをすり替えられることがある。
精神論で全てを突破できる瞬間がある。
クソ適当なもんだなバンドって、って思うのです。

愛をこめて言いますが、バンドなんて本当にクソ適当だなーって。

だからこそ、オートチューンかなんかで整ってる木下さんの声なんて、聞く価値は個人的にはなくって、なんだったらボーカロイドでも入れといてくれよ、って思うのです。

そして、感覚値で言うなれば、そんな加工をする前の音のほうが、びっくりするくらい音的情報が詰まっていてリッチだと思うのです。
何よりピッチが甘くても、どんなによれてても、胸に迫る魅力があったと思うのです。
木下さんの歌は。

もう一つだけ、言わせてもらえるならば。
木下さんは、初期の方が、物語っていた。
いろんな言葉で、彼の物語を聞かせてくれた。

でもそれが、だんだん焦げ付いて固定化していったように、私は思っています。
それが、木下さんの中での成熟なのが、物語る物語がなくなってしまったからなのかは、私にはわかりません。

言ってしまえば、私は、初期ART-SCHOOLの物語が好きなだけなんです。

スナップのように切り取られた風景のランダムな重なりは、ひとつの物語を紡ぎだして、忘れられない、いつかの瞬間を再構成する。

 


『道徳という名の少年』ー桜庭一樹ー を、読みました。

なんだか最近あちこち走り回っていて本を読めていませんでしたが、2日前くらいに読み終わった本のお話。

桜庭一樹先生の『道徳という名の少年』です。

最近、一冊読み終わったらその作家さんの他の本を買うというプレイをしているのですが、基本kindleでまず探すので、その中から気になったタイトルの本がこれだった、という感じで。

今回の購入は全く事前情報無しのジャケ買いでございます。

 

例のごとくネタバレがございますので、未読の方はご注意くださいませ……。

 

町いちばんの美女が雪の降る晩に赤子を生むところからお話は始まる。

町いちばんの美女の子には父がなく、それは罪深く、町の秩序を脅かす出来事出会ったため、人々は恐れおののく。

美女は初めの子に「1」という名をつけ、つぎつぎに生んだ父のない子に「2」「3」と名をつけていき、4人目の子には「悠久」という名をつけた。

出来事を恐れながら見ていた町の人々は、「悠久」という名は、これで打ち止めということだと解釈し、安堵した。

4人の姉妹は、まったく父の面影がなく、美女に瓜二つで、また4姉妹は少しずつ個性はあるながらもそっくりだった……。

その4姉妹と美女の母、そして後に生まれる4姉妹の異父弟をめぐる物語「1,2,3,悠久!」

 

そして、4姉妹の末の妹と異父弟、その間に生まれた子ジャングリンと向かいの家に住む女の子を巡る、奇妙な愛の話「ジャングリン・パパの愛撫の手」

 

ジャングリンと向かいの家の女の子の間に生まれた子ジャングリーナを巡る孤独な話「プラスチックの恋人」

 

ジャングリーナの子ジャンを巡る悲しく純粋な話「ぼくの代わりに歌ってくれ」

 

そしてラストは、ジャングリーナと親戚かもしれないミミとその友達のクリステルを巡る喪失の話

「地球で最後の日」

 

この本は、桜庭先生が、まったく別の媒体にそれぞれ発表した作品を一つにまとめたものなのだそうです。

初めの「1,2,3,悠久!」の時点でおおまかな構想はあったようなのですが、それを元に、その後全く別々のメディアの執筆依頼に対して他の4つの作品を書き発表し、それがのちに短編連作ともなるこの不思議な本に仕上がったのです。

という話を聞くまでは、狙って書いたのだろうなと思っていたのですが、それぞれが時期を同じくせず、いろんな場所で展開していた作品群だとは……。

 

確かに、それぞれは独立した作品として十分に読むことが出来ます。

ただ、続けて読むと、一つの血の繋がった一族の年代史として、非常に奥深い表情を見せる物語に仕上がっているのです。

一番最初の母「町いちばんの美女」は奔放に生き4姉妹を生み、その4姉妹も奔放に生きていく。

4姉妹は一度皆娼婦となり、末の妹は血の繋がった弟と子をもうける。

それはすべて「道徳」に反する行いであり、彼女たちは自分たちに足りないものは何だっのかと話し合い、その名を末の妹と弟の子に名付けるのです。

「ジャングリン=道徳」と。

一連の年代史は、一族の血と「道徳」という名の呪縛からなされる物語としても読むことができるのかなぁと思いました。

同じようなことが巻末の榎本正樹さんの解説にも書いてあるのですが。

 

文体も独特で、説話集や昔話を読んでいるような気分になります。

簡潔な語り口や典型的な物語構造を持って書かれており、さくさくと読めるのですが、とても濃い。

行間に詰まっている情報がとても多くて、それがテンポよく頭に飛び込んでくるので、なかなかに脳みそがびっくりする作品となっていると思います。

 

桜庭先生の作品で拝読したのは『GOSICK』『私の男』、『推定少女』、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』『少女には向かない職業』です。

その中で、私は「父」というものを強く感じていたのですが、この本は「母」の物語だなぁと思いました。

巻末に「インタヴュー 桜庭一樹クロニクル 2006-2012」というものが収録されていて、この6年間の間に榎本正樹さんが桜庭先生に行ったインタビューが大量に収録されていました。

どれくらいというと、ほんの半分くらいが実はこの記事でした……笑

そうとも知らず、まだ読んでいない作品のインタビューまで読んでしまったのですが、どうやら桜庭先生は「父」よりも「母」を多く描いているらしいということが分かってきました!

なので、これまでの私の認識は見当違いだった可能性が大で……若干今恥ずかしいのですが、素直な感想として大事にしてあげるとして……。

この『道徳という名の少年』は桜庭先生の「母サーガ」の一つとして読んで見ると良いと思います。

とにかく早く『少女七竈と七人の可愛そうな大人』を読まないとな、と思っております。

 

ちなみに「インタヴュー 桜庭一樹クロニクル 2006-2012」は内容がかなり濃いので、作品を読んでから読んだほうが先入観なく作品に触れられると途中で気付き、先送りにしました。

桜庭先生の作人に対する生の声が聞きたいあなたにも、是非オススメの本です。

 

 

 

 

 


夜の海、というお話。

先日は、元同僚の友人の結婚披露パーティーのお手伝いに行って参りました。

みなとみらいと聞いていたのですが、実際降りたのはみなとみらい線日本大通り駅。

実は初めての利用でした。

 

目指すは象の鼻広場。

そうです、パーティーは「船上」で行われたのです。

連休初日も屋形船で川崎の工場夜景やら横浜の夜景やらを見ていた私ですが、まさか中一日で再び船上に立つとは。

搬入やらドリンクの準備やらでバタバタしつつ、18時半からパーティーはスタート。

私はドリンクのお手伝いでしたが、飲み放題ということもあり、怒涛の勢いでお酒が捌けていき……なかなかに戦争なのでした。

 

気づけばもうすっかり夜で。

横浜の夜景と、時折顔に冷たい飛沫。あたりは夜の海でした。

 

何かあれば「山に還りたい」と言い出す私は、登山が好きな山派のアウトドア人間なわけですが、海というものはあんまり近づかない場所です。

なぜって、ふるさとでは日本海側とは言えど内陸に育ち、家族で遠出するというカルチャーがあまりない家で育ったので、海水浴なんて片手くらいしか行ったことがなく。

上京してからは「都会の海はなんか怖いらしい」というよくわからない情報を信じてしばらく近づきませんでしたし、何よりも焼けるのが大嫌いなので、縁がなかったんですよね。

 

ただ、最近仲良しさんの関係でちょくちょく海に遊びに行くようになりました。

もちろん日焼け止めベタ塗りで。

 

夜の海の巨大さは、得も言われぬ物がありますね。

ただ真っ黒に、そして生きているように脈打っている。

冷たくどこまでもはてなく広がっていて、一度潜れば全く別の世界が待っている。

とても、こわいもの。

 

山もとてもこわい場所だと思っているのですが、それとは全く別の「自然の脅威」そのものであると思います。

なんでしょうね、だまっちゃいますよね。夜の海を見てると。

「圧倒的」なんて面白くもない言葉をあえて使いますが、全くその通りで。

ただ「母なる海」とも言うように、どこか郷愁を誘ってみたり、心が落ち着いたりすることも確かで。

私達は生まれる前、誰もがお母さんのお腹の羊水の中に浸かっていました。

そもそも「水」というものは、何か切っても切れない縁があるものなのでしょう。

 

真っ暗な夜の海の真ん中に、船というとても頼りない入れ物に乗って漂っている感覚は、ある種、地球という羊水の中を漂っているようなものでもあるのかもしれません。

でも怖すぎないのは、遠くに街の明かりが見えるからなんでしょうね。

すぐそこには帰るべき街がある。日常が待っている。

今はちょっとだけそこから離れた、非日常。そんな感じ。

 

もっともっと暗い、圧倒的に孤独な、自然の中に分け入ってみたいものです。

今年こそ山に泊まろうと思ったけど、寒くなってきちゃいましたね……。

満天の星が、みたいなぁ。


「新文芸坐×アニメスタイル セレクションVol. 48 アニメーション作家・新海誠の軌跡」 に、行ってきました。

一ヶ月前くらいでしょうか。Twitterに流れて来たこのイベントの情報を見て、反射的に予約をしたのは。

私は会社でイラストレーションを作る部署にいるので、新海誠さんの名前はよく聞いていました。

背景がすごい、みたいなざっくりした情報。てっきり背景イラストレーターさんだと思っていた位です。失礼なお話ですが……。

『秒速5センチメートル』自体は知っていました。なにせ山崎まさよしさんの大ファンだったので、「アニメの主題歌になったの?」と当時思ったことを覚えています。

ケーブルテレビの音楽番組か何かで見て、結局映画自体は見ていなかったのですが。

その2つが「新海誠監督」という繋がりを持ったのは最近のお話。

『秒速5センチメートル』の漫画を課題図書として貸してもらったことがきっかけでした。

そして、私の中の新海さんといえば、最近読んだ『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』に、その名前が登場して、大塚英志先生と東浩紀さんが批評していたことです。

そこでは『ほしのこえ』を発表した当時の新海さんの話がなされているのですが、全くほぼ一人でこの作品を作り上げてしまったというエピソードを知り、とても興味が湧いていたのでした。

 

と、私の「新海誠」の事前情報はこれだけでした。

作品は全て初見。オールナイトという過酷な状況ですが、一瞬足りとも気が抜けないなんともスリリングな夜が始まったのです。

正直、うまくまとめられる気がしないのです。

取り留めもない内容になってしまいそうなのですが、どうぞお許し下さい。

例のごとくネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。

 

◆ほしのこえ

『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』で、新海さんがこの『ほしのこえ』をたった一人で作り上げたという話を知り、それは一体どういうものなんだろうか、と思っていました。

時間は25分。少し納得。これが1時間とかだったら、新海誠という人間は一体何者なんだ!という変な先入観が出来てしまっていた気がして、なんだか安心しました。

「携帯の電波が届くところが世界だと思っていた。」

長峰美加子が握る携帯電話は、棒状の懐かしいモデル。

時代を感じつつ、ボタンを両手でプッシュしながら、緑色の画面に一生懸命メールを打っていた頃を思い出しました。

人物の作画には正直「えっ!」と思ったけれど、新海さんが一人で作り上げたということを思い出し納得しつつ、次第に物語の引力で気にならなくなっていました。

寺尾昇と美加子の、日常の何気ないやりとり。

ノスタルジーを逆なでされるような感触、すでにちょっと痛い。

ああ、もうこの頃の感覚ってどんどんすり減ってきてしまってるよなぁ……なんてセンチメンタルになったところで。

宇宙空間にロボット。

 

……えええええええええ!!!!????

 

『秒速5センチメートル』しか事前情報がなかった私は、一瞬置いてけぼりを喰らいましたが、数秒後すぐにリカバリーしました。ただ、斜め上で正直驚きました笑

 

謎の生命体の脅威に対し、国連宇宙軍が対抗するためのロボット「トレーサー」。

そのオペレーターとして選抜された美加子は、宇宙に旅立ちます。

この、女の子が地球規模の危機に、ある日突然立ち向かわなければならない状況になるという設定について『最終兵器彼女』を思い出してしまいました。

あとで調べたら「セカイ系」という言葉において、やはり『ほしのこえ』『最終兵器彼女』は代表例に挙げられているんですね。その話は後に譲ります。

宇宙でもメールは届くらしく、地球にいる昇に、美加子はメールを送り続けます。

ただ、美加子は光年単位でどんどん地球から離れていき、メールが届く間隔はどんどん長くなっていく。

為す術なく待ち続ける昇と、昇との何気ない日々を求め続ける美加子。

新海さんの作品は、「主人公の2人の心の距離と、その近づく・遠ざかる速さをテーマとしたものである」(DVD『秒速5センチメートル』に特典映像として収録されている、新海誠へのインタビュー)らしいのですが、まさに、その距離と時間が、メールというアイテムを使って残酷なまでに離れていくさまを表現しているんだと思います。

 

私は、全作品を通して、もう一つ「孤独」というテーマがある気がしています。

宇宙空間に一人っきりと思えるような状況、大好きな人とは気の遠くなるような距離、そこに身を置きながら、願わくば何事も無く帰れますようにと願う美加子。

彼女は子供で、そして与えられた使命があって、それを放棄して戻ることは叶わない。

ただ、思い出と希望を胸に前に進むしかない。

待ち続ける昇も子供で、見えない大人が決めた不条理にも思える決定を覆す力もなければ、自ら後を追うこともできない。

ただ、間隔が長くなっていくメールを待ち続ける。

 

心だけは繋がっている、そう思いたいけれど、それすらも危うくさせるほどの距離と時間が、そこには広がっている。

次にメールが届くのは8年後、なんて。

そして待ち続ける日々から、前に進むことを選んだ昇の元に届く、8年前のメール。

 

大人になるにつれて、距離と時間に対する向き合い方も、付き合い方も変わってきて、どうにかすれば縮められることもあったり、その方法を行使したりできるようになってくる。

でも、子供の頃って、どうしようもなくそれに対しては力が及ばない。

それは、この後の作品にも、何度も登場する不条理なように思います。

新海さん、なんでそんなにまで、二人を離したがるんですか?

普通にちょっと、辛いです。

 

 

◆雲のむこう、約束の場所

イベントの一番最後に『言の葉の庭』を見るまでは、暫定一位だった『雲の向こう、約束の場所』です。

なんでかって佐渡佐由理ちゃんがめっちゃ可愛いからです!

『ほしのこえ』とのギャップももちろんありますが、佐由理ちゃんの描写がすごくいいです。動きが。

いわゆる平穏できらきらした日常パート部分での彼女の動きに、フェティシズム的なものを感じました。

「女の子のこういう仕草とか動きってかわいいよね」という部分がよく描かれていると思うのです。

と、ヒロインの佐由理ちゃんだけで見る価値があるこの作品ですが、『ほしのこえ』に続きSFです。(私の中では)

戦争を取り扱っている話でもあり、飛行機がビュンビュン飛んでいるところの描写はこれまた凄いです!

この後どんどん新海さんの作品は日常ものになっていきますが、飛行機とかロボットがミサイル飛ばして、背景にでっかい空や宇宙が写り込んでいる……という作品が一番実はやりたかったりするのでは、とつい思ってしまいました。

ただ、夜空と空には、間違いなく何かこだわりのある方なのではないかと思います。

 

「ユニオン」に占領され「蝦夷」と名前を変えた北海道。

南北は分断され、立ち入ることができなくなった土地にそびえる謎の「ユニオンの塔」。

それは天高く宇宙まで伸びているのではないかというほどのもので、日常風景に同化し、あらゆるものの象徴となっていた。

その塔に憧れ、真っ白な飛行機を組み立てる藤沢浩紀と白川拓也。

そして二人の想い人であり、一緒に塔まで飛ぼうと約束をした佐渡佐由理。

 

今回の「距離」は佐由理の「眠り」。

ユニオンの塔は実はとんでもない兵器で、それと対になってしまった佐由理は、3年間眠り続けている。

ここで、「平行世界」というちょっとむずかしい概念が出てくるんですが、それをぶっ飛ばして説明すると、佐由理が目覚めると塔を中心に世界が書き換わってしまう、というのです。

佐由理は「全てが滅びた世界」に一人きりで閉じ込められている。

それが佐由理が見続けている夢であり、その夢こそが、佐由理が目覚めた時に書き換えられる世界の情報=姿である。

と、解釈しました……。汗

 

佐由理は、約束の夏休みの前に睡眠障害を発症し、浩紀達には何も言わず(言えず)突如いなくなります。

浩紀達はその喪失感で目的を失ってしまい、ついに飛行機は完成せず、互いに離れ離れになってしまいます。

没頭できる研究に出会い、ひたすらそれに打ち込む拓也と相反するように、喪失感をむさぼるように生活する浩紀。

まさに新海作品の男主人公の王道を突っ走るわけですが、そんな中でも、佐由理が見続ける「孤独」な夢にほんの少しだけアクセスしていた彼の前に、天啓のように現れる手紙。

佐由理が入院後、ほんの僅かに覚醒していた時期に浩紀達に宛てたものです。

そこから彼は、佐由理の病院に辿り着き(すでに移送後なのですが)そこで、佐由理と「再会」を果たします。

それは、白昼夢とも思える「佐由理の夢に一瞬アクセスする」というものでした。

佐由理が「孤独」に一人きりで耐えていることに気づいた浩紀は、あの「約束」を果たすために、飛行機を飛ばそうとするのです。

 

これも結局、ハッピーエンドじゃないんですよね。

浩紀と佐由理の距離が、最大に近づいたのは、夢のなかで再会した時で。

約束を果たした飛行機の上で、佐由理は目覚め、孤独から開放される代わりに、大切な、大切な想いを「なくして」しまいます。

一瞬だけでもいいから、この想いを伝えさせてくださいと、一生懸命神様に祈るけれど、佐由理は結局、浩紀の名前しか呼べない。

でも。彼女が帰ってきてくれたからそれでいい、と浩紀は言うのです。

再会と喪失の中、三人の繋がりの象徴でもあった白い塔は、爆破され消えていきます。

 

抜けるような青森の空に、いつも細く果てしなく伸びていた白い塔。

その描写は、何度も何度も登場するのですが、一番最後に映る空には、それはなく。

ただどこまでも青い空が広がっているのです。

 

やっぱり「孤独」が出てきます。

今回はより分かりやすく、「一人きりで誰もいない世界に取り残される」佐由理を救う、という構図。

結局、みんな失っていくけれど、でも、私はまだこれはハッピーエンドとして捉えることが出来ました。

痛いけど。

佐由理は、あの真っ赤に染まる放課後の廊下のことも、三人で飛行機を作ったことも、音楽室のバイオリンのことも、全部忘れてしまう。

でも、浩紀は覚えてる。

最後に二人、物理的な距離だけは取り戻すことが出来た。

心が片方なくなってしまっても、もしかしたら、また同じような気持ちを取り戻すことはできるかもしれないから。

ああでも、やっぱり辛いよ。新海さん。

 

 

◆秒速5センチメートル

これは、漫画で事前情報がありましたから、正直あんまり見たくなかった笑

もう、辛いのが目に見えてるんだもん。

『秒速5センチメートル』は女の子ウケしない、という記事を何度か目にしました。

それと同じように、男性目線からも、女と男の違い、的な論争を生んだ作品のように思います。

そして私は、やっぱり遠野貴樹があんまり好きになれませんでした。

男性特有の女々しさと言ってしまえばそれまでな気もするし、過去にとらわれて前に進めない奴、という見方もできるだろうし、一途な想いと喪失感に蹂躙され続けた人、という言い方もできるだろうし。

ただ、なんでしょう。なんかモヤモヤが残る。

「もうちょっと、なんとかならなかったのかな?」です。

でも、今日はちょっと違ったことも考えます。

篠原明里も明里なのかなぁ、なんて。

でも彼女の選択は、やっぱり女だなって思うし、ただ、一度でも会いに行った貴樹に対して、彼女はどうだったんだろう。と。

漫画と小説だけでは、二人の分断された時間の情報がなさすぎて、なんとも言えませんね。

そう、なんだろう。明里という存在が殊の外希薄な気がします。

貴樹が抱く「明里」は色濃く存在し続けるのに対し、実態としての「明里」が、ほとんどない。

小学生と、中学一年の明里だけで。

心に余裕ができたら、小説読んでみようかな。明里サイドの話も読めるみたいだし。

なんだか『冷静と情熱のあいだ』みたいですね。

 

澄田花苗のお話が、一番好きです。

この作品で孤独だったのは、貴樹だったのかなぁ。

最後の最後に、彼は前に進めたんでしょうか。私には、ちょっと分かりません。

キャッチコピーの

どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。」

貴樹の生き方、私は速度を感じませんでした。

 

 

◆星を追う子ども

まさかこの夜4作目にして2時間の大作が来るなんて予期しておらず、精神的ダメージを受けましたが、眠らずにきちんと見れました!

これに関しては……。おおお!?というのが大きすぎて。

明らかにこれまでとは異質な作品です。

新海さん特有の主題は一貫して感じられるのですが、なんというか……ビジュアルが。

ジブリオマージュが……。

「孤独」はやっぱり描かれており、渡瀬明日菜が後半ではっきりと「私寂しかったんだ!」と叫ぶくらいです。

生と死というテーマも掲げられており、少女の成長も描かれており、なんというか作法に則っている感じでした。

これに関してはあえてそうしていったということはあるようです。(Wikipediaより)

アクションも多めで、地下世界を旅するワクワク感は終始感じることができました。

が、なんでしょう……。やっぱり違うものを見た感は大きかったです笑

余談になりますが、「アガルタ」という世界が登場します。

『ほしのこえ』にも惑星として登場するのですが、私にとってアガルタといえば『魍魎戦記MADARA』なんですよね……。

そちらにも胸をはせた作品でした。

 

 

◆だれかのまなざし


たった7分で、傷ついた(笑)心を癒してくれました!

これは視聴可能なので、ぜひご覧ください。30秒付近から見ると良いと思います!

あーちゃん、可愛い。

 

 

◆言の葉の庭

いよいよオーラスです。

最新作『言の葉の庭』です。

一番好きでした。さっき、検索していろんな解釈を見てちょっと興が削がれたところもありましたが、それを差し引いても、やっぱり良かった。

 

雨の日の新宿の庭園。

靴職人を目指すタカオは、雨が好きで、雨の日の1限はきまって授業をサボりデザインを考えていた。

そこである日、昼間からビールを飲んでいる女性、ユキノに出会う。

それから始まる、雨の日の午前だけの逢瀬。

 

ユキノちゃんがかわいい。もうそれだけで私はこの作品好きです!

すみません、仕事柄もありますが、女の子好きすぎるよ私……笑

とはいえ、ユキノは27歳と、新海作品では最年長ヒロイン。そして主人公は15歳の高校生。

今回の距離は、この年齢も一つのアイテムなのかな、と思いました。

 

そして、二人は雨の日にしか逢えない。

今、この携帯端末での交流が当たり前な時代に、流れに逆行するように制限された交流。

そういういえば、新海作品には決まって手紙が登場しますよね。

『秒速5センチメートル』は顕著ですが、『雲の向こう、約束の場所』でもそうでした。

この作品でも、最後には手紙が登場します。

なんでメールじゃないんだろうっていうのはご都合主義でも野暮な話でもなくて、そういう「距離」なんでしょうね。

 

みどころはたくさんありますが、まずはタカオがユキノにお願いして、足の採寸をさせてもらうシーンでしょうか。

降りしきる雨の中、静かに形の良いユキノの足を採寸していくタカオ。

すこしセクシャルで、でもとても美しいシーンです。

ああ、靴作ってあげるのかな、あげちゃうのかな、履いちゃうんでしょ!と否応なく期待が高まります。

 

梅雨のお陰で毎日のように会っていた二人が、梅雨明けのせいでしばらく会えなくなる。

そして夏休み明け、ユキノの正体が判明し、物語が大きく動き出す。

初めて出会った時にユキノが残した万葉集の歌「雷神(なるかみ)の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」 。

晴れた庭園で再会する二人、そしてユキノに返歌を返すタカオ。

「雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」

雷が鳴らなくても 雨が降らなくても君が引き止めてくれたなら 僕はここにいるよ、という意味らしいです。

そして土砂降りの雨。ユキノのマンション。

服を乾かすユキノと夕食を作るタカオ、二人が今が一番幸せだと思う瞬間。

 

そこで、タカオはユキノへの好意を口にします。

ユキノちゃん、赤くなるんだけど……。一歩引いた言葉を紡いでしまう。そして自分は、四国へ帰ると。

生徒にいじめられ、味覚障害になって、学校へいけなくなって、同僚との不倫もあり。

うまく歩けなくなっていた彼女でしたが、タカオのおかげて靴がなくても歩けるようになった、と。

ありがとう、と。

 

でもまぁ、ユキノのために、彼女がもっとうまく歩けるようにと靴を作っていたタカオからすればたまったもんじゃないですよね、こんなこと言われたら。

ユキノとしては、辞めたとはいえ教師という立場上のものはあったんでしょうが、男の子からしたら拒絶でしかなくて、こんないい感じなのにまさかそんなこと言われるなんて!ってなりますよね……。

すぐに着替えて、帰ってしまうタカオ。それを引き止められず、泣き出すユキノ。

ああ、マジかぁ……またこれかぁ……。と、私、激落ち。

なんかこれはいい感じで終わるんじゃないかって、期待してたのに。

しかし。

泣きながらタカオの事を色々と思い出すユキノ。

そして。

……はっと立ち上がって、部屋を飛び出すんです。

 

この瞬間、私テンション急上昇。

やばい、これは、この展開は!頑張れユキノちゃん、走れユキノちゃん!

裸足で部屋から飛び出して走って行くんです、彼女。

(ここで裸足なのは、彼女は靴が必要ないからだと新海さんがオーディオコメンタリーで言ってたという書き込みをみたんですが、ほんとなのかなぁ…。でももう、それならそれでもいい)

途中転んじゃって、でもそれでも頑張って走る。この描写がまたいいんですが。

すると、いるんです、タカオ。

踊り場で、外を眺めながら。でもね。

 

振り向いて、「さっきのは忘れてください」って。

そこから畳み掛けるように、怒りを爆発させる。

でもそれが15歳なりの痛々しい叫びで。彼は、やっぱり裏切られたって思ったのかな。

確かにユキノは大人で、優しくしてたけど付き合う気とか、あるわけないと思うんですよ。

12歳も下で、しかも自分はこれから四国に帰る。いい感じでさよならできると思ってたんじゃないかな。

でもタカオはもうどうしようもなくユキノに惹かれていて、彼女に履いて欲しくて靴を作っていて。

そういうのがもう全部、うわーーって出てくるんです。

ここで私、再び傷つく……。

絶対ハッピーエンドだと思ったのに、まさかここで落とされるとは……。

 

が。

ユキノちゃん、ダイブ。

 

タカオに、思い切り抱きつくんです。

ユキノも、感情が溢れだしてしまったんですよね。立場とか、そういうのもう超えちゃって。

そして辛かった想いを切々と語り、最後に「癒やされていた」と。

 

そう、癒やされていた、と。

そうか……。癒やされていた、なんだ……。

 

いや、もういいとします。これ以上は望まないです。

 

それからユキノは当たり前に四国に帰り、教壇に再び立つのです。

そしてタカオの元には、手紙が届くようになる。

タカオは靴を完成させる。

 

二人共歩く練習をしていたんだと、あの雨の日々を回想し、もっと遠くまで歩けるようになったら、ユキノに会いに行こうと、タカオは思う。

 

教壇のシーンで、ユキノにはタカオの靴を履かせるべきだった!論争や、これはハッピーエンドだ、そうじゃない論争などいろいろ見ましたが。まぁ、どうなんでしょ。

とはいえ、タカオくん15歳だしね。ユキノちゃん27歳ですし。

ここから恋に発展するっていうのもなんだかなぁって気はするんですよね、現実的に。

物語の純度としては、こうすることであの雨の日々が特別なものになる気は、します。

だからこれでよいのだと思いますし、タカオくんがもっと遠くまであるけるようになったら、きっと二人は出会うんだろうし。その時のことはまた、その時のことです。

 

とはいえ、ね。

 

やっぱり、人はハッピーエンドを求めているんだということは、痛いほどに、それは痛いほどに感じました。

勉強に、なりました。

 

 

◆イベントを終えて

さて、昨晩6時間超の時間を、新海作品と過ごした結果、私は今日という一日を、棒に振りました。

綺麗なだけで内容がないとかいう人もいるみたいですが、十分に濃い作品ばかりだと私は思います。

そしてそれをこんなにまとめてみたら、もう頭がぐっちゃぐちゃになり、物語の世界に持って行かれて、結果、呆けるのです。

ふとこれまでの人生を振り返って、劇場で泣かなかったくせに、めそめそ声を出して泣き出したりするのです。

 

どうして、ロボットから始まって、新宿の庭園に行き着いたんだろう。ずっと考えていました。

光年の距離、到着まで8年かかるメールから、雨が降れば会える距離になったのだろうと。

圧倒的無力さを感じざる負えない、徹底した分断。

その中で「想い」と「孤独」だけを純粋に抽出したような初期作品から、「二人」の距離はどんどん近くなっているように思います。

「想い」と「孤独」の隣に日常が寄り添う。そんな作品になってきているのは何でしょう。

リアルの追求? 大衆への迎合? 嗜好の変化? ものづくりのしがらみ?

ものづくりは資本と結びついて規模が大きくなった時に、どう変わっていくのだろう。

たった一人で、一台のPCで『ほしのこえ』を作り上げた新海誠は、今何を思って作品を作っているんだろう。

いいから背景に専念して、他の部分は専門家にやらせれば、という意見を今日何度か目にしました。

消費者というのはわがままで、自分の望む形のそれが生まれることを望みます。

ほしいものをほしいという。

新海誠のつくるビジュアルは好きだけど、お話はどうかな、みたいな人達が今、確かにいるということ。

それに対しての新海さんのスタンスと信念は、どんなものなんでしょう。

 

人にさらされるものづくりの難しさを、考えました。

新海さんは未だ自分の手元に多くを残しながら制作をしている。

批判もあるし、結果描ききれないこともあるのでしょう。

でもそれは、新海さんの戦いなんだと思います。

「新海誠」としてあるための、大切な、たった一人の闘争なのではないかと、思うのです。

それが、新海誠が「孤独」を描く理由だったり、するのではないでしょうか。

なんて、うそぶいてみます。

 

願わくば、どこまでも広がる青空を、飛行機がビュンビュン飛ぶような作品を、また見たいものです。

私が、純度が一番高いと思ったのは『雲のむこう、約束の場所』でした。

 

ここまで読んでくれたあなた、有難うございました。


ここ数日、のお話。

秋田帰省から朝の新宿、まっすぐに職場に向かい3日ぶりの仕事をする。

そしてその夜は再び荷造り。友人の誕生日イブの企画ライブを見るために、仙台へ行ってきました。

かれこれ、一年以上振りです。懐かしい人達と会い、鼓膜が裂けるようなライブを見て、朝まで楽しく飲んで。

翌日の予定は、帰るのみだったのですが、わがままを言って松島まで足を伸ばしました。

念願だった、牡蠣の食べ放題に行ってきました!matsushima01

松島さなか市場というところです。

2500円で牡蠣汁と牡蠣ご飯と、焼き牡蠣の食べ放題セット。

焼きあがった牡蠣をトングで取り、左手には軍手をして、ナイフで殻を開ける。

熱い汁が出てきて、やけどしそうになったりしたけれど、次第に手際よく開けれるようになり、「働けるじゃん!」と友達に言われながらお腹いっぱい食べてきました。

お世辞にも身は大きいとは言えませんでしたが、まだシーズンじゃないですしね。

身が小さくても食べ放題なんですから、さして問題はありません笑

昔から、大好きなものを愚直に死ぬほど食べたいという欲求がありまして。

最近でこそ食に対する執着が薄れてきたのですが、牡蠣だけは一度お腹いっぱい食べてみたかったのです。

牡蠣といえば、19世紀統一ドイツ初代首相のオットー・フォン・ビスマルクは、一晩に生牡蠣を175個も食べたというお話がありますが、できれば50個でいいので、私も生牡蠣をたらふく食べてみたいです……。

という次のステージに胸をはせつつ、大満足でした。(最後は私しか食べてませんでした笑)

matsushima02

 

時間の都合で、遊覧船には乗れませんでしたが、松尾芭蕉気分を少しだけ味わって、東京へ。

 

また金曜日一日だけ働いて、三連休に突入。

なんだか全く働いていなかった週でした笑

 

昨日は、職場の同僚たちと、川崎工場夜景屋形船クルーズなるものに行ってきました。

「工場萌え」なる言葉があるようですが、まさに工場っていいよね!を感じに行く屋形船の時間。

ちなみに私はそういう属性はないのですが、単純に屋形船に乗りたかったし、夜の海の上を滑るなんて素敵じゃないかと、行って参りました。

スタディ・ツーリズムというくらいですので、きれいですねー、だけで終わらない。

終始きちんとした歴史や工場機能の説明を聞きながらのクルーズ。

みんな写真に夢中であまり聞いてはいない様子でしたが、ちょこちょこと耳に飛び込んでくる情報は、なかなかに新鮮でためになるものでした。

途中で甲板に出ることも出来て。潮風でベタベタになりながらも、真っ暗な海とそこに淡く浮かび上がる工場の光は、秋の夜長の夢みたいでした。

個人的には、夜景よりも、船が楽しかったのですが。

 

夜の海、その引力を考えながら、少しみんなとご飯をして、池袋へ。

新海誠さんの作品をオールナイトで鑑賞するというイベントへ向かいます。

そう、これが本番です。

そのお話は、また別のスペースで。


『四畳半神話大系』ー森見登美彦ー を、読みました。

『四畳半神話大系』という名前自体は、かなり前に聞いた友人の話で頭に残っていました。

「今やってる四畳半神話大系ってアニメがすごく面白い、絶対好きだと思う。」というような話だった気がします。

ちょっと前にKindleのセールでこちらがすごく安くなっていたので、買っておいたのですが、帰省中に読了したので、その感想を書いてみたいと思います。

 

例の如く、ネタバレ含みますので、未読の方はご注意ください。

 

まず、始めに目を引いたのはその文体でした。

昭和文学を思わせるような文章で、真っ先に浮かんだのは、「さよなら絶望先生」の糸色望みたいな「書生」スタイルの「私」の服装なのですが、よくよく呼んでいくと舞台設定はもっと最近のようで、平成なのかもしれません。

画像検索でアニメの画像をいくらか見ましたが、ヒロインの明石さんの格好を見ると現代っぽいですし。

ただ、文体のせいで、なんだか昭和の時代の話なような気がしてくるし、現代を象徴する描写が出てきた時にはそれが無理やりこちら側に戻されるような感じがして、妙なふわふわ感が良い意味で気持ち悪くて心地よかったです。

また、そんな古めかしい文体のくせに、ときおりチラリと覗くユーモアな言葉が、若干ラノベ的だったりして(私の感覚では)その狙ったアンバランスもまた良い読み味を作っている気がしました。

 

「あのときこうしていたら」という起点から分かれていく「私」の人生を綴った4つの話。

すべては独立した別の話で、パラレルワールド的なのですが、実はどこかつながっている事を示唆する描写が時折現れ、それが琴線を刺激します。

特に最終話の「八十日間四畳半一周」の世界観は、独特かつこれまでの流れが精算されるような、納得感のあるお話です。

 

何より痺れたのが、この4つの話に登場する「全く同じ文章の部分」です。

「私」の選択によって、事件の当事者が変わったり、発言主が変わっていったりするわけですが、それについての描写が全く同じ「文章」で描かれるのです。

例えるならば、Aというベースストーリーがあって、それを段落ごとに切り分けていき、並べ直して別のストーリーを作っていくような。

もちろんそれだけでは、すべてを語りきることは出来ないので、まったく新しいシーンが書き足されたりはしているのですが、大部分が同じ。

ただ、順序が違う。それによってその文章が持っていた意味も変わってくる。もしくは分からなかったことが見えてくる。

非常に妙だなぁ!と思いました。

そしてこんなにすごい勢いで読み飛ばしながら読めた小説は初めてです笑(良い意味で!)

 

お話としての面白さと、小説としての技工と、2つの面で唸るばかりの本でした。

 

個人的な感想としては、どんな道を辿っても、結局同じ人達と出会っていき、そして最後はヒロインと結ばれる、というのがよかった。非常によかったです。

なんだか素直に運命論を信じたくなる、説得されてしまった気がしました。

そして、明石さんすごく素敵なヒロイン。

 

もう一つ、キーパーソン小津ですが。

彼が、頑なに彼女の存在を隠すわけですが、これって、「私」に対する、「彼なりの愛」なんでしょうね。

最後の最後に、そんな気がしました。

 

これはアニメの方も是非見てみようと思っています!

森見登美彦さんの本はもう一冊買っているので、そちらも楽しみです。

というわけで、素直にオススメしたい一冊でございます。

 

 


帰省しながら色々考えました、というお話。

9月は三連休が二回もあるという素敵な月なわけですが、先週金曜の夜に新宿を経ち、二泊三日で帰省させて頂きました。

昨日深夜のバスで再び東京へ戻り、只今職場におります。

 

今回の帰省の目的は、家族的なサムシングについて兄妹でお話するためだったりするのですが、詳細は割愛します。

私は東北・秋田出身なのですが、その中でも「県南」と称されるエリアがふるさとです。

農家が主産業の田んぼばっかりの田舎町。ただ、面積はすごく広かったりします。

すごく有名な盆踊りと、蕎麦が美味しいところです。

昔は2万人いた気がするんですが、もうだいぶ人が減って、昨日なにげに調べたら、もう1万5千人の人口みたいです。

駅はありません。路線バスは需要がなさすぎて、随分とダイヤが少ないのですが、これも私が高校生だった頃から比べると更に縮小しているみたい。

 

特に用事は一つしかなかったので、猫と戯れたり、ゆっくり本を読んだり、花火を見たり、友達とBBQをしたり、のんびりさせて頂きました。

 

お仕事を辞めた後、フリーランスとして生きていくつもりなのですが、最初数ヶ月、実家に帰ろうかな、なんて考えています。

よく考えたら、上京してこの方、一週間以上休んだこともないし、すこし気分的に休んでみるのもありだなー、なんて。(もちろん仕事するんですけどね)

それに、家族のことがありますので。

 

そんなこんなで、「この街で暮らすとしたら?」ということについて、考えた三日間でした。

 

友達は随分と結婚していて、この土地に残った人達なわけですが、若者はどんどん減っています。

それはしかたがないんだろうなぁ、とやっぱり思います。だってなんにもないんだもん。

これは文句ではなくて、何も私のふるさとだけの問題ではなく、こういう街はたくさんあるんですよね。

ゆるくゆるく、傾いていくように、人が少なくなっていく。

眠るように、静かに、先細っていく。

 

では、いわゆる「町おこし」の必要性はあるのか?

そもそも町おこしってなんなのか。

結局は問題意識があるかないか、現状に満足しているのかどうなのか、なんですよね。

不満があるから変えようとする、危機感があるから手を打とうとする。

私のふるさとにそれがあるんだろうか、と考えました。

 

幸い私のふるさとには、先程も話した有名な盆踊りという、観光資源があります。

人口は本当に減ってしまいましたが、それでも財政的には黒字という話を聞いたことがある気がします。(裏は取ってませんが)

この盆踊りを使って、何かもっとすることは出来るんでしょうが、これから革新的に新しいことが生まれてくるような気配は感じません。

それは、ハンドリングしている人達に若者がいないという根本的な問題もある気がするのですが、何よりも「伝統を守る」「新しいものが入ってくることを拒む」という面と、それを「観光化、商品化」するという相反する思想の元、この盆踊りが運営されているからな気がします。

変わらないことが素晴らしいというのも分かるのですが、変わり映えものをずっとずっと、「良い」として享受してくれるほど、消費者って優しくないよね、と私は思うのです。

まぁ、変わってきてもいるんですけどね、盆踊り。でもそれは意図した変化でなくて、どちらかというとあまり歓迎できない変化、のようですが。

私が思うのは、「観光化」しようと思った時点で、もっと割り切った視点って必要なんじゃないかな―ってことなんですけどね。

 

もうひとつ思ったのは、「IT」でした。

情報の発信、享受において、今や欠かせなくなった感のあるインターネットと、それに伴う技術ですが、当然ながらそういうものに対するリテラシーは低いし、興味もないんだろうなと。

無理はありません。「ネット」はこの土地を多く占めるご年配の方にとって、元々存在しなかった、そして使えなくてもさして問題ないものなのですから。

人って、変わることを嫌がりますし、ね。

 

なんかそれならそれでもいいんだろうな、って思うのですが。

この土地にいる、若い人はどうなんだろう?と。

この土地を選び、骨を埋めることを選んだ同年代にとっては、やっぱり刺激がなさすぎる気はします。だって若いんだもん。

そしてその子どもたち。残ることを選ぶにしろ、出て行くにしろ、青春時代を彩るアイテムがもう少し合ってもいい気がします。

少なからず、それがうまれてくるような土地の元気は、残念ながら感じません。

 

それが「IT」とつながるかどうか、というと一概には言えませんが、私は今そういう会社に努めているわけで、例えば私が何かするとしたらそういうことなんだよなーって。

取り敢えず、母校のHPを見て、何年前のデザインだよ……と気分が暗くなったのが最たる原因です。

それこそ、ネットリテラシー講座とか、中高生にしてあげたいなぁ、私なんかで良ければ。

なんて思ったりしながら、今日からまた東京生活。

 

ふるさとは好きですが、だから何か使命感があってこんなことを考えたわけではないんですが笑

でも「やれることがあって、それを行動に起こすことも多分出来る」という感触は、これからフリーになろうと思っている私には、大事な感触でした。

 

さーて、お仕事しますか。


愚民社会【ニコ生】 を、見ました。

前記事で、2001~2007年の大塚先生の本を読んだわけですが、以前に書いたこの記事は、さらにその後の大塚英志についてのものでした。

私自身、まだ本の方は未読なので、これを気に「その後」を比較してみないとなと思っています。

まずはニコ生でその片鱗を感じることができるので、プレミアム会員の方は是非……!

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<2013年7月31日の記事です。>

Twitterのタイムラインに偶然流れてきたURL。

ニコ生『愚民社会』

大塚先生と宮台さんの対談本『愚民社会』の発売をうけて、去年放送されたニコ生の番組でした。
仕事中ながら聞きしてやろうとイヤフォンをつけましたが……とてもじゃないけどこの情報量は無理だ!と断念。
でも面白いから絶対聞いてやろうと思っていたのですが、いかんせん二時間くらいあるので、ちょっとずつ聞こうかと。

思ってたんですけど、さっき全部聞いちゃいました笑

この「愚民」というワード、実は編集部が名付けたものらしいのです。
なんでって、対談中、大塚先生は「土人」といい、宮台さんは「田吾作」という言葉をつかって、日本の民衆を批判するのです。(もちろん本の方でも)
編集部の肝の冷やし方と言ったら、それはもう心中お察しします、なわけで。

「日本は民主主義ではない」「近代をやり損ねた」という言葉などで語られていく「民衆」。
柳田国男は、第一回普通選挙の際に、有権者のことを「日本人は魚の群れ」といったそうですが、選ばれた政治家たちや、有権者・民衆の啓蒙について、希望を持っていたそうです。

ですが、やっぱりてんでダメだった!「愚民」だった!というのが、このニコ生の冒頭なわけです。
「日本はすでに終わっていた!」なんていうキャッチコピーがついてますしね、本のほうには。

ただこれに関しては、大塚先生は、
「終わったというより、日本は始まりそこねている」という事も言っておりました。
近代をやり損ねた、と同義ではあるのですが、終わったのと、「始まっていない」のは、本質的に大違いですよね。

辛辣で痛快な論説が飛び交うニコ生ですが、最後の最後に、宮台さんは
「絶望から始まる」とも言っています。
そして大塚先生は、「じゃあどうすればいいですか、じゃなくて自分で考えたら」と。

至極全く、その通りなんですけどね。

民度が低い、というところを飛び越えて、土人だ田吾作だと言われるまでに「お前ら終わってんだよ」と突き付けられている状況で、「どうすればいいんですかね」なんてボールを投げ返すこと自体が、本当に愚の骨頂なんですよね。
問題意識と考える力の無さ。
空気に左右されない「自力」ってなんでしょ、という話。

魚の群れから一人飛び出した所で、何かが変わる保証はないですが、魚群で大きな魚になったつもりでいても、本質的な強さや価値なんて手に入らないよね、と思います。

詰み本増えるので我慢しますが、この本は絶対買おうと思います。
の、誓いを込めて、こちらです。


『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』―東浩紀+大塚英志― を、読みました。

敬愛する大塚先生こと、大塚英志と、個人的に最近注目している東浩紀さんとの対談本。

発行は2008年8月、新しいとはいえませんが、その文脈はけして古くなく、学び取れることは多かったと思います。

とはいえ、この手の本は最近読み始めたということもあるし、私自身の脳みその問題もあるのですが、一瞬で咀嚼し理解できるかというとそうは簡単にいかず……。

電車通勤の間に、ちょこちょこ読んでいたのではまったく頭に入ってこず、まとまった時間を見つけて、今回もう一度頭から読み直しました。

最初の方は、二度目ということもあり、そこそこ理解できたのですが、後半はまたもや頭がおっつかず、正直なところ理解度は6~7割あればいいほうかなぁ……というところです。

お恥ずかしい限りではありますが、これは根気よくもう一度など読む必要があるかな、と思っています。

そんなお粗末な状態ではありますが、貴重な読書体験でした。

 

そろそろ、お話を本の内容に移したいと思います。

この対談集には、二◯◯一年に収録された第一章、二◯◯二年に収録された第二章、二◯◯七年に収録された第三章、そして二◯◯八年に収録された終章の四つの対談が収録されている。

『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』―東浩紀+大塚英志― あとがき より

実に最初の対談から発刊まで7年が経過しているのです。

読んでいると時々ハラハラしてくるほど、二人の言説はすれ違います。なんだか冒険小説でも読んでいるのかと思うほどで、「大丈夫かな、これは無事に着地するのだろうか。このままどういう展開になってしまうんだろうか」と思う瞬間が何度もありました。

おそらくそれは大塚先生の論法なんだと思うけれど、東さんの言葉に、「でも」とひたすらにクエスチョンを投げ続けます。

東さんも「いやそれは違うと思います」と何度も何度も言うし、「違わないんじゃないの、じゃあどうなの」と大塚先生も一歩も引かない。

なんだかこれ喧嘩してるんじゃないかという気がしてくるくらい。

でも、東さんは「大塚英志は、僕がもっとも尊敬する同時代の評論家のひとりである。」とあとがきで述べているし、「ぼくの文芸系/オタク系評論の目標の目録には、じつは大塚英志の再評価というささやかな項目が入っている。」とすら言っているのである。

それに対して大塚先生は、すごく彼らし言い回しだけれど「認めている」と言っていて、かつ「分かってあげないというスタンスをこの後もずっととっていく」という言葉で、今後も面と向かって付き合っていくよということを言っていると私は取りました。

そういう関係性だからこそ、一度関係が途切れそうになっても(あとがき参照)最終的にこの討論は一応のまとまりを見せ、この本が私の手元にあるんだと思います。

7年の歳月には、とても意味があると思うのです。

 

ええと、この本の主題って……。おたく/オタク、でしたよね?

……まったくそういう印象が残っていないんですが笑

なんというか、大塚先生が、「東浩紀はこの状況でどういう言説を作っていくのか、それについてどう責任を取っていくのか」ということを、ひたすらに問い詰め続け、東さんがそれをかわし続ける(かわしているわけではないんだけど)という構図の印象しかないのです……。

特に第三章ですね。ここには第二章から5年の断絶があり、あとがきを読むとその章を通しての大塚先生の「苛立ち」の理由がちょっと分かる気がするのですが、とにかく大塚先生が東浩紀にイライラしてる。

なんでそんなに苛ついているのか、と東さんが何度か聞いてしまうくらい。白熱した章です。

私は、大塚先生が好きでこの本を買ったわけですが、これは東さんを好きな方に読んで欲しい本だと思いました。

そんなことを言わなくても、これは形としては東さんの本なので、余計なお世話かもしれないのですが。

大塚先生は結局「自分は東浩紀が何を考えているか知りたい、理解したい、だから話がしたいんだ。逃げないで答えろ」みたいなスタンスで、納得をしようとしてる、そんな感じがしました。

そして、大塚先生って7年間であんまり変わらないんです笑

でも終章で自分で認めるように、東さんには「変化」があるのです。

なんというか、大塚先生というフィルターを通して、その東さんの「変化」を楽しむことが出来る本なのではないかと思いました。

 

お二人の高尚な議論の内容については、申し訳ありません……。

ここでしっかり語れるほど咀嚼しきれていない私がいるので、敢えて触れません。

ただ、上記のような、東さんの思想の変遷を見ることもできるし、東浩紀という思想家の言説と対比することで改めて見えてきた、大塚英志の人間像というものにも触れることが出来ました。

大塚先生って、人を食ったようなところがあるし、自分の以前の経歴や言説を、平気で後になってぶっ壊したりするなんともクセだらけ、かつ毒を吐きまくる人なわけですが、実はすごくピュアな信念を持っていて、希望も持っている人な気がしました。

……と書いて、そういえば以前見た2012年発行の、宮台真司さんとの本「愚民社会」にまつわるニコ生での、大塚先生の語りっぷりを思い出しました。

もう今は、希望持ってないかも……。そちらも改めて見直す価値あり、ですね。

 

以上、拙い感想になってしまいましたが、東浩紀・大塚英志に関心のある方には是非読んでみてほしい一冊でした。

私は、評論でオーバーヒートした頭を、小説で癒やしにかかります……。

 

 


『文豪ストレイドッグス』2巻、 を読みました。

実家に帰省中でございます。
『文豪ストレイドッグス』の2巻ですが、Kindle版が発売開始しているのを発見したのでさっそく購入して、帰りの高速バスの中で読みました。

1巻は友人から借りて読んだのですが、この機会にそちらもKindle版を購入して、おさらいしてからの読書となりました。

友人は、設定ありきの出落ち感をしきりに強調しており、私も最初は同じ感想だったのですが、改めて読んでみると、なんだかんだで先が気になるなと笑
私は、漫画については巧妙なフラグ立てとか、設定を裏読みすることに、あんまり興味がなくて。(もちろん秀逸に構築されたものには素直にうなり、感動しますが)
なんでしょうか、ラーメンもそうなのですが、パートのおばさんみたいな方や家族経営でおじいちゃんが作ってるような中華そばが、結局一番美味しいと思うたちなので、漫画も「うん、なんかいいじゃん」でわりと満足してしまえるのです……。
こういうと、私の感性が安くて、文豪ストレイドッグスが面白くない、みたいな曲解もできるので、そこのところは誤解のないようにお願いします!
遠回りな言い方になりましたが、文豪ストレイドックスは「確かにツッコミどころはあるけれど、面白いと思えるアイテムはきちんと揃ってるよ」ということです。

以下、若干ネタバレ含む可能性がありますので、未読の方起きをつけ下さい!

1巻に引き続き、どんどん新しい「文豪」モチーフが出てきます。
ただ、連載ものというところもあり、雑誌の一回分であっさりバトルが終了してしまって、その後もう出てこないんだろうなって感じが正直もったいない!
また「ジョジョの奇妙な冒険」の話をしてしまいますが、第三部って、実はかなり短い展開でたくさんのキャラとバトルがあったのですが、それがかなり濃密に展開されていて、いい意味で長く感じる作品でした。
そういう深みがもっとあるといいんだけどなぁ……と、強いてわがままを言えばそんな感じです。

「文豪」はモチーフでしかないので、時代考証とか実際の人物同士の関係性はかなり関係なく登場します。
これって思ったのですが、モチーフは「実物する人」でありながらも、もはや「擬人化」だなと笑
モチーフとなっている文豪の作品や性格や来歴などを「記号化」してそこから新たなキャラを作っていく。
擬人化、デフォルメ化の作法と一緒なんですよね。
擬人化ものと思うと、なんだかこの作品がすごくすんなり受け入れられた自分がおりました。

その他、漫画として純粋な表現の拙さは感じますが、やっぱり企画と着眼点は面白いので、そこで全然走れちゃうなぁと思ってます。
なーんか、よくも悪くも、角川漫画っぽいなと、思います。

今回の見所は、1巻で全く明かされなかった与謝野晶子さんの異能の全貌が明らかになるところと、敵キャラの梶井基次郎と泉鏡花!!
梶井基次郎と泉鏡花が一緒に出ちゃうところが、めちゃくちゃでなんか好きです笑
梶井がいい性格しているのと、今後の味方化が期待できる鏡花たん……!

……これ、好きになっちゃったかもしれないぞ、と思いつつ、3巻期待してます!