誰にもわからないことは存在してしまうというお話。

nirvanaのカート・コベインは、27歳の若さでこの世を去りました。
猟銃で自らの頭をぶっ飛ばして。
自宅の納屋で、1994年4月8日に発見され、世界中は世紀のロックスターの死に大きく沈んだそうです。

彼が、ジャンキーであることは世界が知っていました。
覚せい剤の使用はもちろん後ろに手が回る行為でしたが、当時の世間は今よりは緩くって、「噂という名の公然の事実」みたいなものが、音楽の世界にはあったように思います。あくまで当時の状況を記した文章を読んだ限りの想像ですが。

薬に溺れるのですから、プレッシャーだったりなんだったり、心に負担を負っていたことは誰にでも想像できたことだと思いますが、誰もが「なんで」と言ったそうです、
そして「危ない」と思っていた人は周りにたくさんいたけれど、結局止めることはできなかった。

「誰が彼を殺したんだ」なんて問いかけがされました。
ファンが彼に押し付けた偶像や期待が、彼を追い詰めてしまったんだとか、突然スターダムに駆け上がったことで「こんなはずじゃなかった」と心が壊れてしまっただとか。
でもそんなことは、結局他人の推測と妄想でしかなくて。
彼がたった一人で死ななくてはいけなかった理由には、永遠に到達できないような気がします。
彼が誰にも助けを求めなかった(ように見えるだけかもしれないけれど)のは、「誰にも理解できない」と思ってしまったからなのではないかと思うのです。

師匠がよく言います。
「人を理解するという言葉も、人を変えようとする行為も、全てがおこがましい」

とても悲しい響きですが、私はその意味を常に考えるようにしているし、そうなのだろうなと、どこかでは理解しています。
大切なのは、その上で人とどうやって接し、付き合っていくのかなのだと。

昨日も痛ましいニュースが流れて来ました。
少し前も、ネットの誹謗中傷が原因と言われる悲しい死がありました。

有名であろうとなかろうと人間なことに変わりはない。
心の強さ弱さも関係ない。
向けられる悪意の総量も、きっと関係があるけれど、最終的に問題はそこではない。

誰しもが、同じように感じて同じように痛いと思えないということこそが、すべての原因なんだと思います。
結局「理解」はできないんだと、思うのです。

じゃあ、諦めるしかないのか、というとそういうことではなくて。

わかるわけないんだから、「わかる」っていったり、わかった気になったり、「断定」することが愚かなのかと。
でもわからないなりに、想像し続けることが大切だと思います。

理解したい、という気持ちで想像して、想像して、寄り添いたいとあがき続けることが、優しさなんじゃないかな。

こうに違いない、と想像を止めた瞬間に、それは押しつけになって、見当違いになって、自己満足に変わるんじゃないでしょうか。

師匠が言いました。
「俺もいつ死ぬかわからんからよろしく。でもお前もだろ。せめてそのときは一言言ってけよ。」

ああ、この人、私が死にそうなとき助けてくれる気ねーなって思いました。笑
でもそれが師匠なりの優しさな気もします。
もし私が死んでやろうと思ったとき、それを止める権利がないのは知ってるけど、ワンチャン最後に話くらいさせろ、という意味だと取っておきます。

私は、「死にたくなったら寺山修司の『自殺のすすめ』読め」って昔、師匠に言われたことをそのまま返しておきました。

人にやさしく。それはとても難しいけれど。できるかぎり、優しくありたいと思います。
想像することだけは、やめてはいけない。

以上、落ち込むこともあるけれど、寝たら朝がやってくることだけはわかっているつもりのayaseでした。


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