秋雨と言の葉の庭、というお話。

昨日から続く秋雨。

秋は大好きな季節です。

雨は億劫ですが、嫌いじゃありません。シチュエーションによってはとても好き。

 

昨日、久しぶりの終電近くの電車に乗って最寄り駅に辿り着いた頃には、雨脚は強まっていて、仕方なくローソンでビニール傘を購入しました。

12時を過ぎたらご飯は食べないルールなのですが、どうしても我慢できなくて外食で中華。

ビニール傘を打つ雨の音を聞きながら、日付が変わった暗い夜道を帰りました。

考えていたのは、さきごろ見た『言の葉の庭』です。(その時の感想はこちら。かなり下のほうです。)

 

Twitterでこんなツイートを見かけました。

私なりの解釈では 雨=「降っている無意識」「深みのあるもの」「守りのあるもの」と考えている。箱庭の解釈でも水の領域は無意識を示すものであるし、何か表立って意識の出来ないものや、内に秘めている思考や情緒のようなものなのではないだろうか。

雨から身を守る傘自体が守りの構造をするものであるし、雨の日に傘の下でいること自体安心感を招く要素があると思う。そんな雨の日に行なわれるユキノとの交流は、お互いを無意識まで掘り下げての非現実的な心的世界の交流だったのかもしれない。

それは勿論タカオにと安心感を与えたが、二人の関係性から見ると、とても危険な交流でもあった。なんとか普段は外への顔を取り繕っている二人が、深い世界で交流することのリスクは大きいのではないだろうか。

-ちさ@clearfantasistaさんの 2013年9月29のツイートより転載-

確かに、雨の日に、誰もいない広大な庭園の東屋の下で何度も重ねられた2人の時間は、「この世ではないどこか」に近い場所だったのかもしれません。

一度外に出たら濡れてしまう、でもここにいれば安全、という二人しか知らない場所。

ちささんは、「リスクが大きい」と言っていますが、それはよそ行きの自分でない、ありのままの状態での交流だったから、ということなのでしょうね。

距離は縮まりやすく親しくなりやすいけれど、一度違えば、素肌に刃物を突き立てるように、無防備な状態の相手を傷つけることも出来る。

 

最後の踊り場でのやりとり、あの時も2人は生身だったなぁ、と思います。

あの時タカオはユキノを明確に「傷つけようとしていた」し、それはユキノは傷ついたけれど、その刃物で、最後の薄皮一枚残った彼女の「建前」を突き破ることができたんじゃないかなぁ。

その後のユキノちゃんの行動には、お恥ずかしながらぐっときちゃったのでした。

 

そして今朝も、雨。

ビニール傘を伝う雨粒の流れを見ながら、会社に行きたくないなぁと、とぼとぼ歩く私。

ユキノはもっと重いものを背負っていたと思うけれど、こんな感じで、少しずつ目的地を外れて、あの庭園に向かっていたのかなぁ。

 

「水」は、私達が生まれる前に包まれていたもの。
私は川が好きだけれど、水の流れる音って、どうしてあんなに気持ちを落ち着かせてくれるんでしょうか。
そして、この雨音も。

 

 


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