昨日は、『華麗なるギャツビー』の後に『オン・ザ・ロード』を見たのですが、あいだの時間内にギャツビーの感想を書ききれず、中途半端になってしまいました……。
早速ですが、残りの感想を書いていきたいと思います。
原作『グレート・ギャツビー』の(正直書き直したい)感想はこちら
引き続き、ネタバレ含みますので、まだの方はご注意ください……。
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前回の感想で、トムがニックを連れて、愛人のアパートでどんちゃん騒ぎするところまで書きましたが、補足を。
トムの愛人マートルはアイラ・フィッシャーが演じております。
原作では、グラマラスで、いわゆる男好きする女性という感じで描かれていますが、確かにグラマラス。
でもなんというか、アメリカングラマラス……。
私の好みじゃなかったです。(そういう趣味はありませんが)
薄汚れた炭鉱町で車の整備工をしている甲斐性なしのジョージ(ジェイソン・クラーク)の妻、ということで、下町女なわけですが。
ファッションやメイク含めて、いい意味で「下品」な感じが出ていて、きらびやかな社交界のセレブ達の描写とよい対比になっていたと思います。
ちなみにジョージは原作を読んだ時のイメージにピッタリのキャストで、演技もとても良かったです。
さて、メインキャラが出揃ったところで……実はまだギャツビーが登場していません。
その美しさも、莫大な財産も、すべてが完璧な男 ―ジェイ・ギャツビー。 だが、彼には〈秘密〉があった―。
宮殿のような豪邸に暮らす、謎めいた男がいる。彼の名は、ジェイ・ギャツビー。どこから来たのか? どうやって大富豪になったのか? 仕事は何をしているのか? いったい何のために、毎夜のように豪華絢爛なパーティーを開くのか? 誰一人その答えを知らない。
ニックは、隣人ギャツビーの招待状を持ってパーティーへ訪れますが、その他の人々は誰も招待状など持っていません。
勝手に集まってくるのです。
そしてその誰もが、ギャツビーを知らない。会ったこともない。
それを強調するような演出。
ギャツビーは登場人物が全て出揃って、その関係性などを大体私達に伝えたところで、華麗に、満を持して登場するのです!
そしてそのジェイ・ギャツビーを演じるのは言わずと知れたレオナルド・ディカプリオです。(ちなみに私は洋画をほとんど見ないので、ここできゃーきゃー言いません。)
32歳の役でしたが、もう38歳になられたんですね!
さすがにちょっと老けたな、って思いましたが、初登場の際の笑顔は、それはもう素敵でした。
初めてギャツビーが現れるパーティーのエピソードで、ニックとジョーダン( エリザベス・デビッキ)が良い雰囲気になる描写が描かれます。
原作ではそれをきっかけに、二人は親密になっていくのですが、それがあまり描かれていなかったのが残念です。
なんだかんだ、そのパーティーのシーンだけだったのでは……。
そのせいか、最後にニックとジョーダンが決別するシーンの重みがいまいちだった気がします。
でも、今作でのニックの立ち位置は、徹底的に「語り部」として描かれていたので、きっとそれで良かったんだと思います。
そのパーティ以来、ニックと顔見知りとなったギャツビーは、己の目的のために、積極的にニックに近づいていきます。
ニックを誘い、ニューヨークの「床屋」へ行くエピソード。
黄色いオープンカーでブイブイ運転して向かうわけですが、やっぱりアメリカの映画ってすごいですよね……。
あんなのどうやって撮るんでしょう。
日本で行ったらベイブリッジみたいなところであんな危ない運転……。
規模が違いますよね、やっぱり。
そして1920年代だと言われたら納得してしまうあの街並み風景。
CGなわけないとは思うんですか(CGなのかな……!? いや、CGな気がしてきました。)
国土が広い分、日本のように均一的に近代化していないから、良い風景もたくさん残っているんですよね、きっと。
ここで登場する怖いおじさんウルフシェイム氏は アミターブ・バッチャンが演じておりました。
原作を読んだときは、もっとでっぷりした本当にインチキな人物を想像していましたが、もっとシュッとした感じで。
ただ、よりマフィアっぽくていい味出してました。
段取り揃って、ついにギャツビーとデイズィの対面。 このエピソードのディカプリオの演技は秀逸でした!
5年ぶりの再会、彼にとっては悲願だったわけですが、その5年分の想いがゆえの緊張と支離滅裂さが見事に演じられていました。
すごく可愛かったです。笑
こっちまでニックの気分になり、ハラハラしたり居た堪れなくなったり……。
ただ、そこから二人の距離が縮まり、ギャツビーの城へデイズィが招かれたパートは、本当に美しかったです。
この作品で、おそらく一番幸せで満たされた時間だと思います。
それ故に、デイズィの涙が重かったです。
私は、原作を読んだ時、ギャツビーが一人でから回っているだけのように読み取っていたのですが、そんなことはないんですね。
デイズィは、ギャツビーとの再会を本当に喜んでいて、心から楽しんでいた。
そして、再び愛は蘇る。
でも、二人の間に横たわる「5年」という歳月の意味と、「過去」というものに対する想いのズレが、歯車を狂わせる原因だったんだな、と認識を改めました。
デイズィはパーティーに招かれ、トムはこの時から二人を疑い始める。
パーティーを抜けだした二人は、愛し合いますが、「このまま逃げたい」というデイズィと、それに異を唱えるギャツビーの間に、「想い」のズレが生じ始めます。
ギャツビーは、ニックに「過去は変えられる」と言います。
そしてニックは「求めすぎだ」と。
ギャツビーは己の崇高な理想のために、過去を必死に塗り替えようとしていました。
デイズィと逢瀬を重ねながら、トムと別れさせるため説得を繰り返します。
ついに決心したデイズィは、トムにそれを切り出すためのお茶会を開きます。
ただ、ニックとジョーダンが立ち会うというのが条件でした。
このエピソードの緊張感と、心情の微妙な変化の様子。
私はまたここで、原作を読みきれてなかったなぁと感じたのでした。
原作を読んでいた印象では、デイズィの心はパーティーの時から少しずつ離れ始めていて、それでもギャツビーが強引に彼女を説得して、事を進めようとしていたんだと思っていました。
しかし、このエピソードでの様子を見た時に「ああ、デイズィは本当にギャツビーを選ぶ気だったんだな」と。
しかし一度に愛人と妻を失いそうになっていたトムは必死の攻防を繰り返し、デイズィは動揺していく。
緊張と動揺から始まり、落ち着きを取り戻したデイズィが夫を蔑み調子づいて来たところから、また動揺し始めて……という一連の様子が手に取るように分かり、原作がとてもよく補完されたエピソードでした。
ここでもギャツビーは「求めすぎだ」と言われます。事もあろうにデイズィに。
「過去は変えられない」と、彼女は言うのです。
今はあなたを愛している、それでいいじゃない、と。
ここで、ギャツビーとデイズィ、男と女の違いがはっきりするような気がするんです。
デイズィにトムを「愛したことはなかった」と認めさせたいギャツビー、一度は愛したという事実を消すことはできないと思うデイズィ。
今愛してるって言ってるんだからいいじゃん!と思うわけですが、それじゃダメなんですよね、ギャツビーは。
それは彼の理想のせいなのです。
思い描いたあるべき形のための。 そんなのに拘らなかったら、二人は結ばれたかもしれないのに。
デイズィからしたら、離れ離れになってしまった想い人が、白馬に乗って現れて、不遇の自分を迎えに来てくれた……という、途中までは完璧なシナリオだったはずなのに。
一方ギャツビーは、デイズィのために全てを用意した。
彼女を迎えに行くために、死に物狂いで這い上がって、巨万の富と名声を手に入れ、それは全てデイズィのため。
ギャツビーの描く理想の二人の将来にはそれは必要なもので、彼はその理想とデイズィにひたすらに一途にあり続けた。
でも、食い違ってしまったんですよね。
ギャツビーは最後まで、崇高な理想とデイズィを信じ続けた。
愚直なまでに。
信じたかった、といった方がいいのかもしれませんね。
それはおそらく彼の人生の全てで、それが崩れ去ってしまったら、彼には何も残らないのですから。
最後に、トムは確かにバチは当たったけど、デイズィが残った。
でもそれは愛の勝利とか、美しいものではないと思います。
彼は最後までズルかったし、一生自分が苦しめられるであろう嘘をついた。
それによって心を入れ替えて一生デイズィを大事にしたとしても、それは十字架を背負った贖罪でしかない。
またデイズィも、一生忘れられない、そして償うことも出来ない罪を背負ってしまった。
栄華は瞬く間に過ぎ去る。 良い時は一瞬だけ。
なんというか、諸行無常ですね。
ただニックだけがギャツビーを愛し、彼だけが、ギャツビーを語る。
語り部として生きる彼は、これから何を見るんでしょうね。
さて、私の拙すぎる原作の感想を改めることでまとめとしましょう。
いつかの日の想いを胸に、莫大な富を得て、満を持して彼女の前に現れるギャッツビー。その彼の並々ならぬ想いというのは、キュンと胸を打ちそうなものなのですが、デイズィにとっては結局「遅すぎた」再会で「タイミングが悪かった」だけなんだなぁ、と。
再会が遅すぎた、それはひとつ真実。
でもギャツビーの登場に、デイズィは胸を焦がした。 二人は愛しあった。でも。
過去を塗り替えようとしたギャツビーと、過去は過去として、二人の新しい日々を願ったデイズィの、見ていた未来は違っていた。
私の大嫌いな「男はフォルダ分け、女は上書き保存」という言葉で説明するならどういう解釈になるのか?
あえてそれについては言いませんが、「男は後ろばかり見ている、されど女は前を向いている」というのは、いえるんじゃないかなぁと。
「男はロマンチスト、女は現実主義」というのも言い得て妙ですね。 型にはめたくはないですが。
「男」と「女」ってほんと、こうだよなぁ。というのが、一番の感想です。
どうやらこの感想だけは、変わらなかったみたいです。私。
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