約一ヶ月の翻訳本の旅が終わり、やっと気楽に日本の小説が読める!と嬉々として読ませて頂きました。
『GOSICK』から大ファンの桜庭一樹先生の本です。
くしくも、私のPaperwhite初読了本となりました。
(例のごとく気ままに書きますので、ネタバレ含む可能性大いにありますので、ご注意ください。)
14歳の女の子のお話。
そういえば『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も『推定少女』も、『私の男』にも中学生の女の子が出てきた気がします。
桜庭先生の好きなモチーフなのでしょうか。
海辺に囲まれた田舎町、漁師……という舞台もしかり。
ご出身が島根だそうですか、ご自分の投影だったりするんですかね……。
私も東北のど田舎出身なので、もし自分が書くことになったら、そういう風景って投影するのだろうか、とか考えてみたり。
桜庭先生の作品って、とにかく人が死ぬんですね。と最近やっと分かってきました。
恋愛に関しても、普通のものが書けないんですよね、といつかのあとがきで仰ってましたが、死、に関してもまぁ、なかなかに特殊というか、味があるというか……。
今回も血が繋がっていないにせよ「父殺し」がありましたし、逆に『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』だと、お父さんに殺されちゃう女の子が出てきますしね。
『推定少女』も『私の男』も、「父」という存在がとても重要になってくるのですが、これもよく登場するテーマということは、何かしらのメタファーだったりするのでしょうか。
14歳、思春期真っ只中の女の子の、脆くて壊れそうな自我を一生懸命立たせているような日常。
14歳なりの人生観、世渡り、なんとなく先が見えないような不安とか。
青春なんてキラキラばっかりしてるわけじゃなくて、それ相応に辛くて理不尽で、いいことばっかりじゃない。
子供だって必死なんだよ、という小さな叫びにまでならない呻きみたいなもの。
私は、後々自分で「達観症」という名前をつけることになる、一歩引いた俯瞰で物事を見るような、世の中ちょっとわかっちゃってるような、どこかすかしたいけ好かない子供だったのですが、ものすごく自意識過剰でもあって、その頃を思い出して胸が痛くなったりしました。
ありふれた言葉で言うなら、そんな青春群像劇に「殺人」というアンバランスすぎるものが侵食してくる……。
14歳の殺意、ってなんだろうと思いました。
私は「キレる14歳」という世代を身近に体験した人間ですから、子供だって人殺すんだよ、っていう認識があります。
あの頃、殺したいほど憎い人っていたかな、もしくは、それに近い力で排除しないと自分に不利益になる人っていたかな、と考えてみました。
ぱっと浮かんでくる人はいませんでした。
あの先生嫌いだったとか、本当に面倒くさくてうざかった先生がいた、とか。先生のことばかりでした。
それってどういうことかというと「大人への嫌悪感」なのかな?とふと考えたのでした。
子供は「大人はずるい」ってよく言う生き物だとされていますが、それってつまりは、子供にはどうしようもない、大人が行使する強大な力全般に対する、必死の抵抗の一言なんじゃないかと、思うのです。
なんだかんだ、最後には言うことを聞かないといけないとか、暴力に訴えてもかないっこないとか、結局そういう諦めを心のどこかに持って接しているのかなと。
その中でも、どうしようもなく逃げようがないのが「親」なんですよね。
私は幸いにも(?)親を殺したいと思ったことはありませんでしたが、親を殺したいと思う気持ち自体は、完全に否定出来ないと思っています。
いい大人になってしまうと、質が違ってしまうので、そちらに関してはちょっと待ったと思うのですが、子供が親に対して抱く「殺意」は、なんだか仕方ない気がしてしまうんですよね。そういう理由で。
もちろん、助長する気は一切ありませんが。
大人と殺意の話に寄ってしまいましたが、この小説が子供の殺意を本題にしている、とは全く思いません。
「殺人」は、このお話の中でアイテムでしかないのかな、と。
大人と子供のコントラスト。子供、14歳というもののアウトラインを、より明確に切り出すために、用意されたアイテムなんだと思うのです。
だから、絶望から自分を救うために親を殺す話でも、14歳のダークサイドをあぶり出すサイコ的な話でもなくて、脆くて弱い、オトナになるために何とか生き延びたい少女たちの、至極まっとうな青春群像劇であると、改めて結論を出すのです。
私は当分殺されたくありませんが、14歳って、人を殺すぐらいに多感でキラキラして絶望している歳だと思うのです。
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