大塚英志先生を、私が敬愛しているのは、常々声大きく言っていることなのですが、今、その大塚先生と東浩紀さんの対談本を読んでいます。
どちらも注目している人物で、かつ内容が濃すぎて必死になりながら食らいついておりますが、そんなこんななところで、大塚先生の著書について書いた記事を引っ越ししてきました。
今もなお、私のバイブルとして中心に据えられている本です。
私は物語の話をする時に、ついついこの論説を引き合いに出してしまうのです……。と言うくらい、血肉になっている内容なのです。
数カ月前の記事なのですが、今読んでもしっかり書けてる……笑。
もちろん多くは大塚先生の言葉を借りているわけですが、それがすらすら出てくるって、しっかり脳みそに焼き付いているってことですよね。
というような、お話です。どうぞ。
------------------------------
<2013年7月22日の記事です。>
『物語消費論改』を読了したのですが、その前に。
やっぱりこの本なくして、そちらはお話できないと思ったのです。
すでに読了してだいぶ経ってしまっていて、内容はおぼろげではありながら、確実に私のバイブルとなっている本なのであります。
その名も『定本 物語消費論』です。
そもそも私と大塚先生の話をすると、長くなるのですが―― (さっそく割愛)
はい。
『ビックリマン』をモデルに語られる「物語消費論」から論説は始まっていきます。
ビックリマンシールは、チョコレートの食玩、つまり付加価値としてのおまけであるはずなのに、チョコレートはもはや食品としての意味をなしておらず、「お菓子を買う」という一見当たり前の消費行動を通して、実は「ビックリマンシール」を消費していた、というのがあの社会問題にまで発展した事象だった。
というのは自明として、では一体、ビックリマンの「何が」消費されていたのかということなのですが。
それが、ビックリマンシールの背景に隠れた「壮大な神話体系を持った物語」だというのですよ。
ビックリマンシールの裏には、ちょっとした説明テキスト(私の仕事ではフレーバーテキストと呼んでいるもの)が書かれているのですが、それだけでは単なるノイズでしかない情報の断片なのです。
しかしこれを集めていくと、徐々に断片は蓄積され、その全容が見えてくる。
それが、壮大な神話的物語なのです。
子供たちは、この物語を「補完」するためにシール集めに邁進した。
それは断片を利用した「物語の再構成」であり、ある種その神話は、一人ひとりに立ち現れるとも言えるのです。
消費されていたのはチョコレートでも、シールでもなく「物語」だったのだ、と。
もちろんこれを軸として、論説はどんどん展開していくのですが、この冒頭だけでも、かなりショッキングだったわけです、私は。
このあと、後の『同人誌』の走りである『聖闘士星矢』や『キャプテン翼』ものの二次創作漫画の話とかが、出てくるのですが、これについてのお話も目からうろこで。
それまでの「消費」は、与えられたものを享受するという受け身のものだったが、自ら「物語る」ことでの「消費」というのが今はある、というようなことを言ってるのです。
「世界観」という話が出てくるのですが、この二次創作はパロディではない、と。
『聖闘士星矢』の「世界観」の中で、ある種起こり得た可能性がある一つの物語、なのです。
「世界観」とは、語り手と受け手の間に横たわる、一定のルールであり、枠組みなのですが、その中で起こりえたこと、というのは実は無数に存在するはずなのです。
この時「オリジナル」はそれでなくなり、数ある物語の一つになってしまう。
そうやって、ただ受け手であったはずの人たちは、自らの物語を、物語るようになっている。
そうやって、「物語を消費している」のです。
これが80年台のお話だということに衝撃を受けたんですよね。
今の二次創作事情、これを更に推し進めたところにきているじゃないかと。
もう、みんな自分で「参加」しないと気がすまなくなってるじゃないかと。
この2つの章が、特に未だに心に残っております。
他の部分も、もちろん面白いのですが、大塚先生の独特の言い回しと論の進め方、実はたまに思考停止して頭に入ってこない時があり……(すみません)
いつかもう一度じっくり読もうと思っています。
と、これについてはもっと書きたいこともあるのですが!
それはまたの機会に譲るとして。
これを受けての『物語消費論改』が更に胸熱だったわけで……!
という話も次回に譲ります。
とにかく、個人的にはすっごくオススメです。
さすがにちょっと古いのですが、「今」を理解する上で、有効な文脈だと思います。
ピンバック: 『物語消費論改』-大塚英志- を、読みました。 | あおいはる。
ピンバック: あおいはる。